また雨模様の週末だ。十月の看板を作らねばならないが暗い雰囲気に傾斜しそうな予感。




2002ソスN9ソスソス28ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 2892002

 セザンヌの林檎小さき巴里に来て

                           森尻禮子

林檎
ザンヌはたくさん林檎の絵を描いているので、作者がどの絵のことを言っているのかはわからない。ただ「巴里」で見られる最も有名な作品は、オルセー美術館が展示している「林檎とオレンジ」だ。六年の歳月をかけて完成したこの絵は、見られるとおりに、不思議な空間で構成されている。そのせいで、見方によって林檎は大きくも見え、またとても小さくも見える。じっと眺めていると、混乱してくる。美術史的な能書きは別にすると、常識的なまなざしにとっては、かなりスキャンダラスな絵に写る。たとえば作者は、まず美術館でこの絵を見た。実際の林檎は大きかったのか、それとも……。で、その後で、裏通りの果物屋か八百屋で売られている林檎を見た。とすると、そこに盛られていたのは、予想外に小さな林檎だったはずである。日本の立派な林檎を見慣れた目には、貧弱とすら思えただろう。私の乏しい見聞では、あちらの林檎は総じて小さいという印象だ。ああ、百年前のセザンヌは、こんなにも小さな林檎に立ち向かっていたのか。作者はこの感慨に、どんな名所旧跡よりも「巴里」に来ていることを感じさせられたのだった。と、こんなふうに読んでみたのですが、如何でしょうか。『星彦』(2001)所収。(清水哲男)

お断り・作者名のうちの「禮」は、正式には「ネ偏」に「豊」と表記します。


September 2792002

 豊年や夕映に新聞を読み

                           加畑吉男

の季語「豊年」の意味は誰でも知っているが、昨今「豊年」を実感する人は、農家の人を含めても少ないのではあるまいか。品種、技術の改良工夫が進んできて、五穀の収穫も均質化され、よほどのことがないかぎり、まずまずの豊作は保証されるようになってきたからだ。その意味で、豊年はだんだん死語と化していくだろう。いや、もはや実質的には死語かもしれない。したがって、豊年の季語を詠み込んだ俳句が生き生きと感じられるのは、昔の句に限定される。掲句がいつ詠まれたのかはわからないけれど、戦後にしても、十数年とは経っていないころかと思われる。「夕映(ゆうばえ)」のなかで「新聞」を読む農夫……。忙しい収穫期に、まず新聞など読むヒマもない人が、今日は夕映のなかで新聞を読んでいる。豊作が確実となった心の余裕からか、あるいはあらかたの収穫を豊饒裡に終えた安堵からなのか。かつて農村に暮らした私などには、もうこの情景だけでジ〜ンと来るものがある。そして、この新聞は夕刊ではないだろう。いまでもそうした地方は多いが、夕刊がきちんと配達されるのは、都会か都会に近い地域に限られている。ましてや昔ならば、まず農村に夕刊が届けられることはなかった。この人は、だから朝刊を読んでいるのだ。夕映のなかにある朝刊。この取り合わせが、五五七の破調とあいまって、一読、胸に響いたまま離れないのだった。『合本俳句歳時記・新版』(1974)所載。(清水哲男)


September 2692002

 猿の手の秋風つかむ峠かな

                           吉田汀史

ながら、よく描かれた墨絵を思わせる品格ある句だ。この「秋風」は、肌に沁み入るほどに冷たい。群れを離れた一匹の「猿」が、「峠(とうげ)」で懸命に掴もうとしているのは何だろうか。かっと目を見開いて身構える孤猿の「手」を、作者は凝視しないわけにはいかなかった。掴みたいものが何であれ、しかし何も掴めずに、風を、すなわち空(くう)を何度も掴んでいる姿には、孤独ゆえに立ち上がってきた狂気すら感じられる。そんな猿のいる峠は、したがって、容易に人間の立ち入れるような世界ではないと写る。異界である。ところで、作者自註によれば、実はこの猿は檻の中にいた。「剣山の見える峠のめし屋。錆びた鉄格子を狂ったように揺する一匹の老猿」。掴んでいるのは実体のある鉄格子だったわけだが、その鉄格子を風のように空しいものと捉えることで、作者は猿を檻の外の峠に出してやっている。出してやったところで、もはや老猿の孤独が癒されることは、死ぬまでないだろう。だが、出してやった。いや、出してみた。単純に、自然に返してやろうというような心根からではない。檻の中の一匹の猿の孤独が、実は峠全体に及んでいることを書きたいがためであった。『浄瑠璃』(1988)所収。(清水哲男)




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