プロ野球。連日、クビになる選手の名前が、新聞の片隅に載っている。哀しい季節です。




2002ソスN9ソスソス30ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 3092002

 鐘鳴れば秋はなやかに傘のうち

                           石橋秀野

書に「東大寺」とある。句の生まれた状況は、夫であった山本健吉によれば、次のようである。「昭和二十一年九月、彼女は三鬼・多佳子・影夫・辺水楼等が開いた奈良句会に招かれて遊んだ。大和の産である彼女は数年ぶりに故国の土を踏むことに感動を押しかくすことが出来なかった」。この「傘」が日傘であったことも記されている。秋の日が、さんさんと照り映えている上天気のなか、久しぶりに故郷に戻ることができた。それだけでも嬉しいのに、すっかり忘れていた東大寺の鐘の音までもが出迎えてくれた。喜びが「傘のうち」にある私に溢れ、それも色彩豊かな秋の景色とともに「はなやかに」日傘を透かして溢れてくる……。「傘のうち」は、すなわち自分にだけということであり、同行者にはわからないであろう無上の喜びを、一人で噛みしめている気持ちが込められている。このときに作者は、日常の生活苦のことも、それに伴う寂寥感も、何もかも忘れてしまっているのだ。故郷の力と言うべきだろう。再度、山本健吉を引いておけば「そしてこの束の間の輝きを最後として、その後の彼女の句には、流離の翳に加うるに病苦の翳が深くさして来るのである」と、これはもう哀悼の辞そのものであるが。『桜濃く』(1959)所収。(清水哲男)


September 2992002

 朝潮がどっと負けます曼珠沙華

                           坪内稔典

の「朝潮」は、いつの頃の朝潮だろうか。大関までいった現高砂親方も、負けるときにはあっけなく「どっと」負けてはいた。肝心のときに苦し紛れに引く癖があり、引くと見事なほどに「どっと」転がされてたっけ……。でも、彼以上に「どっと負け」の脆さを見せたのは、昭和三十年代に活躍した横綱の朝潮のほうだろう。「肩幅が広く胴長の体格、太く濃い眉を具えた男性的な容貌や胸毛は大力士を思わせ、師匠の前田山は入門当初から『この男は将来は横綱に成る』と公言していた。それだけに厳しく稽古を附けられたが泣きながら耐え、強味を増した。右上手と左筈で左右から挟み附けて押し出す取り口は『鶏追い戦法』と言われて圧倒的な強さを見せたが、守勢に回ると下半身の弱さから脆く、『強い朝潮』と『弱い朝潮』が居ると言われた」(「幕内力士名鑑」)。腰痛分離症、座骨神経炎につきまとわれていたからだが、当時としてはとてつもない大男だったので、失礼ながら私は秘かに「ウドの大木」と呼んでいたのだった。この朝潮全盛時代には、テレビはまだまだ高嶺の花だったので、すべて街頭のテレビで見た記憶による。掲句のミソは、とにかく「どっと」に尽きる。群生する「曼珠沙華(まんじゅしゃげ)」も、どっと咲いてはどっと散っていく。高校時代、バス停への近道に墓場を通った。この季節になると、文字通りに「どつと」咲き乱れていた曼珠沙華よ。おお、哀しくも懐しい記憶が「どっと」戻ってきたぞ。『猫の木』(1987)所収。(清水哲男)


September 2892002

 セザンヌの林檎小さき巴里に来て

                           森尻禮子

林檎
ザンヌはたくさん林檎の絵を描いているので、作者がどの絵のことを言っているのかはわからない。ただ「巴里」で見られる最も有名な作品は、オルセー美術館が展示している「林檎とオレンジ」だ。六年の歳月をかけて完成したこの絵は、見られるとおりに、不思議な空間で構成されている。そのせいで、見方によって林檎は大きくも見え、またとても小さくも見える。じっと眺めていると、混乱してくる。美術史的な能書きは別にすると、常識的なまなざしにとっては、かなりスキャンダラスな絵に写る。たとえば作者は、まず美術館でこの絵を見た。実際の林檎は大きかったのか、それとも……。で、その後で、裏通りの果物屋か八百屋で売られている林檎を見た。とすると、そこに盛られていたのは、予想外に小さな林檎だったはずである。日本の立派な林檎を見慣れた目には、貧弱とすら思えただろう。私の乏しい見聞では、あちらの林檎は総じて小さいという印象だ。ああ、百年前のセザンヌは、こんなにも小さな林檎に立ち向かっていたのか。作者はこの感慨に、どんな名所旧跡よりも「巴里」に来ていることを感じさせられたのだった。と、こんなふうに読んでみたのですが、如何でしょうか。『星彦』(2001)所収。(清水哲男)

お断り・作者名のうちの「禮」は、正式には「ネ偏」に「豊」と表記します。




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます