河出の名編集者・坂本一亀氏が亡くなっていた(9月28日)。さよなら、ワンカメさん。




2002ソスN10ソスソス3ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 03102002

 枯色も攻めの迷彩枯蟷螂

                           的野 雄

語は「蟷螂(とうろう)」で秋。カマキリのこと。世界中には1800種類もいるというが、日本には10種類ほどのようだ。カマキリに保護色はないはずだから、句の「枯蟷螂」とは褐色のカマキリのことだろう。落葉の上や枯れた草陰などにいると、それらと体色とが「迷彩」になって、なかなか姿がわからない。肉食ゆえ、そんな姿で息を殺すようにして、通りかかる獲物を待ちかまえているのだ。これぞ、まさに「攻め」の態勢。枯れた色をしているからといって、命まで枯れているのではない。人間だってそうなんだぞ、枯れてきたからといって馬鹿にしたものじゃないんだぞ。と、古稀を迎えた作者は、このカマキリの攻めの姿勢に大いに共感し、勇気づけられているのだと思う。枯色から来る常識的なイメージをくつがえしてみせたところが、掲句のミソだ。作者はよほどカマキリの攻撃性が好きなのか、句も多い。「目がピカソ枯野を蹴って蟷螂出る」と、これまた勇躍としている句だが、たまには自分が威嚇され攻められかかって「眼づけの蟷螂の目を寝て思う」と神妙になったりもしている。『斑猫』(2002)所収。(清水哲男)


October 02102002

 台風一過小鳥屋の檻彩飛び交ふ

                           大串 章

風一過というと、まず真っ青な空が目に浮かぶ。「やれやれ」と安堵して、ひとりでに目が空を泳いでしまう。そんな句が(たぶん)多いなかで、作者の視点はユニークだ。真っ暗だった街に生気がよみがえってきた様子を、「小鳥屋の檻」のなかで「飛び交ふ」鳥たちの色彩に託して詠んでいる。普段ならば、檻の中の小鳥は必ずしも生気を示しているとは言えないけれど、台風で周囲が暗かっただけに、とりわけて「彩」が目立つのだ。ところでこの小鳥たちは、平常どおりの動きをしているのだろうかと思った。というのも、掲句が載っている『合本俳句歳時記・第三版』(1997)の隣りに、加藤憲曠の「一樹にこもる雀台風去りし後」があったからである。雀の生態は知らないが、この句の雀たちは、明らかにおびえている。身を寄せ合って、なお警戒していると写る。野生の本能的な身構えだ。比べて、飼われている鳥たちはどうなのだろうか。まったく野生が失われているとは考えられないから、やはり天変地異には敏いのではあるまいか。だとすれば、台風後のこの鳥たちは、いわば狂ったように飛び回っているのかもしれない。美しい狂気。「鳥篭」と言わず、敢えて「檻」としたのは、そのことを表現するためだと読むと、句の景色はよほど変わってくる。(清水哲男)


October 01102002

 十月やみづの青菜の夕靄も

                           藤田湘子

や「十月」。今月は「体育の日」もあったりして、抜けるような青空を連想しがちだが、統計的に言っても、とくに前半は雨の日も多い。空気が湿りがちだから、靄(もや)や霧が発生しやすい月である。掲句は、そんな湿り気を帯びた十月をとらえて、見事なポエジーを立ち上らせている。戸外の共同炊事場だろうか。「みづ(水)」に漬けられた「青菜」に、うっすらと「夕靄」がかかっている。本来ならば鮮やかな色彩であるはずのものが、半透明に霞んでいる。美しさを感じると同時に、なんとはなしに寂寥感も覚える句だ。美しくもそぞろ寒い夕暮れの光景が、読む者の心を秋深しの思いに連れていくのである。「夕靄も」の「も」が、とても効果的だ。「も」があるから、句の世界が青菜一点にとどまらず、外に開かれている……。ところで以前にも書いたような気もするが、靄と霧の違いは、気象学的には次のようだ。「気象観測では視程が1キロ以上のときを『もや』、1キロ以下のときを霧としているので、気象観測でいうもやは、霧の前段階の現象である」〈大田正次〉。ちなみに「視程(してい)」は、「大気の混濁度を示す尺度。適当に選んだ目標物が見えなくなる距離で表す[広辞苑第五版]」。昨今の東京あたりでは、朝靄はのぞめても、句のような夕靄には、まずお目にかかれなくなった。「煙霧」ばかりになってしまった。『合本俳句歳時記・新版』(1988・角川書店)所載。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます