松井と福留の打率の今後を計算してみる。他人事なのにねえ。子供の頃からこうでした。




2002ソスN10ソスソス7ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 07102002

 とつぜんに嘘と気づいて薮虱

                           岡田史乃

薮虱
語は「薮虱(やぶじらみ)」で秋。名前は知らなくても、写真から思い当たる方も多いだろう。山道や野原を歩いていると、いつの間にか薮虱の実が衣服についていることがある。動物にも付着し、この植物が種をばらまくための知恵と言ってよい。そんな薮虱がついていることに「とつぜん」気づくように、誰かに騙されていたことに気づいたというのである。こういうことは、よく起きる。笑い話程度の嘘のこともあれば、深刻な中身をはらんだ嘘のこともある。とにかく、とつぜんに「ふっ」と気がつくのだ。嘘ばかりではなく、なかなか思い出せなかった人の名前や地名など、これはいったい如何なる脳の仕組みから来るものなのだろうか。句に戻れば、嘘の中身は薮虱の実が簡単には払い落とせないことからすると、笑ってすませられるようなものではないことがうかがえる。不愉快を覚えて力任せに払い落としてみるが、たとえ実だけは落ちたとしても、何本かのトゲが残ってしまう薮虱のように後を引く嘘なのだ。嘘と薮虱。取り合わせの妙に、作者の感度の良さを称賛しないわけにはいかない。写真は、青木繁伸(群馬県前橋市)氏の撮影によるが、部分を使わせていただいた。薮虱の花の写真は多いのだけれど、命名の所以である実の写真は意外に少ない。『浮いてこい』(1983)所収。(清水哲男)


October 06102002

 終バスの灯を見てひかる谷の露

                           福田甲子雄

舎の夜道は暗い。暗いというよりも、漆黒の闇である。谷間の道を行くバスのライトは、だから逆に強烈な明るさを感じさせる。カーブした道を曲がるときには、山肌に密生する葉叢をクローズアップするように照らすので、たまった「露」の一粒までをも見事に映し出す。百千の露の玉。作者は「終バス」に乗っているのだから、旅の人ではないだろう。所用のために、帰宅の時間が遅くなってしまったのだ。めったに乗ることのない最終便には、乗客も少ない。もしかすると、作者ひとりだったのかもしれない。なんとなく侘しい気持ちになっていたところに、「ひかる露の玉」が見えた。それも「灯を見てひかる」というのだから、露のほうが先にバスのライトを認めて、みずからを発光させたように見えたのだった。つまり露を擬人化しているわけで、真っ暗ななかでも、バスの走る谷間全体が生きていることを伝えて効果的だ。住み慣れた土地の、この思いがけない表情は、バスの中でぽつねんと孤立していた気持ちに、明るさを与えただろう。シチュエーションはまったく違うけれど、読んだ途端にバスからの連想で、私は「トトロ」を思い出していた。あのトトロもまた、生きている山村の自然が生みだしたイリュージョンである。『白根山麓』(1998・邑書林句集文庫)所収。(清水哲男)


October 05102002

 秋晴や太鼓抱へに濯ぎもの

                           上野 泰

洗濯機
もかもが明るい爽やかな「秋晴」。こんな日には、シーツなどの大きなものも、まとめて洗濯したくなる。1960年(昭和三十五年)の句だから、電気洗濯機で洗ったのか、あるいは昔ながらの盥で洗ったのかは、微妙なところで推測しがたい。写真は当時出回っていた「手動ローラーしぼり機付き洗濯機」(日立製作所)だが、洗濯槽も小さかったし、この「しぼり機」で大きいものをしぼるのは無理だ。やはり、盥でじゃぶじゃぶと濯いだのではあるまいか。また、そのほうが「秋晴」の気分にはよく似合う。で、洗い上げたものを庭の物干場まで持っていくわけだが、何度も往復するのは面倒なので、いっぺんに持てるだけ抱えていく。細い廊下なども通らなければならないから、ちょうど「太鼓」を抱えるときと同じ要領で、洗濯物を両腕で肩幅くらいに細く挟むようにして抱えていくことになる。太鼓でもそうだが、まっすぐ前はよく見えないし、抱えているものに脚も当たる。何も抱えていないとすれば、ちょっとヨチヨチ歩きに似た格好だ。「太鼓抱へ」という言い方が一般的だったのかどうかは知らないけれど、言い得て妙。こうでも言うしか、大量の洗濯物を運ぶ姿は形容できないだろう。しかも秋晴に太鼓とくれば、これはもう小さな祝祭気分すら掻き立ててくる。今日あたりは、全国的に「太鼓抱へ」のオンパレードとなるにちがいない。『一輪』(1965)所収。(清水哲男)




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