石段の高きところに落ち栗のかがやきいたるこの時間軸(永田紅『北部キャンパスの日々』)。




2002ソスN10ソスソス8ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 08102002

 石榴淡紅雨の日には雨の詩を

                           友岡子郷

語は「石榴(ざくろ)」で秋。「淡紅(たんこう)」は、句の中身から推して、晴れていれば鮮紅色に見える石榴の種が、雨模様にけぶって淡い紅に見えているということだろう。句の生まれた背景については、作者自身の弁がある。「今にも降り出しそうな空模様だった。吟行へ連れ立ったグループのひとりが、それを嘆いた。私は励ますつもりでこう言った。『いいじゃないの、雨の日には雨の句をつくればいい』と」(友岡子郷『自解150句選』2002)。俳句の人は、吟行ということをする。俳句をつくる目的で、いろいろなところを訪ね歩く。私のように詩を書いている人間は、そうした目的意識をもってどこかを訪れることはしないので、俳人の吟行はまことに不思議な行為に写る。だから、こういう句に出会うと、一種のショックを受けてしまう。俳人も詩人も同じ表現者とはいっても、表現に至る道筋がずいぶんと違うことがわかるからだ。天気のことも含めて、俳人は事実にそくすることを大切にする。ひるがえって詩人は、晴れた日にも、平気で「雨の詩」を書く。だからといって、なべて詩人は嘘つきであり、俳人は正直者だとは言えないところが面白い。その意味で、掲句は私にいろいろなことを思わせてくれ、刺激的だった。日常会話的に読めば凡庸にも思えるかもしれないが、俳句が俳句であるとはどういうことかという観点から読むと、私には興味の尽きない句である。吟行論を書いてみたくなった。『翌(あくるひ)』(1996)所収。(清水哲男)


October 07102002

 とつぜんに嘘と気づいて薮虱

                           岡田史乃

薮虱
語は「薮虱(やぶじらみ)」で秋。名前は知らなくても、写真から思い当たる方も多いだろう。山道や野原を歩いていると、いつの間にか薮虱の実が衣服についていることがある。動物にも付着し、この植物が種をばらまくための知恵と言ってよい。そんな薮虱がついていることに「とつぜん」気づくように、誰かに騙されていたことに気づいたというのである。こういうことは、よく起きる。笑い話程度の嘘のこともあれば、深刻な中身をはらんだ嘘のこともある。とにかく、とつぜんに「ふっ」と気がつくのだ。嘘ばかりではなく、なかなか思い出せなかった人の名前や地名など、これはいったい如何なる脳の仕組みから来るものなのだろうか。句に戻れば、嘘の中身は薮虱の実が簡単には払い落とせないことからすると、笑ってすませられるようなものではないことがうかがえる。不愉快を覚えて力任せに払い落としてみるが、たとえ実だけは落ちたとしても、何本かのトゲが残ってしまう薮虱のように後を引く嘘なのだ。嘘と薮虱。取り合わせの妙に、作者の感度の良さを称賛しないわけにはいかない。写真は、青木繁伸(群馬県前橋市)氏の撮影によるが、部分を使わせていただいた。薮虱の花の写真は多いのだけれど、命名の所以である実の写真は意外に少ない。『浮いてこい』(1983)所収。(清水哲男)


October 06102002

 終バスの灯を見てひかる谷の露

                           福田甲子雄

舎の夜道は暗い。暗いというよりも、漆黒の闇である。谷間の道を行くバスのライトは、だから逆に強烈な明るさを感じさせる。カーブした道を曲がるときには、山肌に密生する葉叢をクローズアップするように照らすので、たまった「露」の一粒までをも見事に映し出す。百千の露の玉。作者は「終バス」に乗っているのだから、旅の人ではないだろう。所用のために、帰宅の時間が遅くなってしまったのだ。めったに乗ることのない最終便には、乗客も少ない。もしかすると、作者ひとりだったのかもしれない。なんとなく侘しい気持ちになっていたところに、「ひかる露の玉」が見えた。それも「灯を見てひかる」というのだから、露のほうが先にバスのライトを認めて、みずからを発光させたように見えたのだった。つまり露を擬人化しているわけで、真っ暗ななかでも、バスの走る谷間全体が生きていることを伝えて効果的だ。住み慣れた土地の、この思いがけない表情は、バスの中でぽつねんと孤立していた気持ちに、明るさを与えただろう。シチュエーションはまったく違うけれど、読んだ途端にバスからの連想で、私は「トトロ」を思い出していた。あのトトロもまた、生きている山村の自然が生みだしたイリュージョンである。『白根山麓』(1998・邑書林句集文庫)所収。(清水哲男)




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