書きたいことは山ほどある。でも、書けないのは勉強不足だからだ。勉強はキラいだね。




2002ソスN10ソスソス9ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 09102002

 鳥渡るこきこきこきと罐切れば

                           秋元不死男

わゆる「新興俳句事件」に連座して、作者は戦争中に二年ほど拘留されていた。その体験に取材した句も多いが、掲句は自由の身になった戦後の位置から、拘留のことを思いつつ作句されている。拘留時の作者は、おそらく自由に空を飛ぶ鳥たちに、羨望の念を禁じえなかっただろう。鳥たちは、あんなに自由なのに……。古来、捕らわれ人の書いたものには、そうした思いが散見される。だが、ようやく自由の身を得た作者には、必ずしも「渡り鳥」の自由が待っていたわけではない。冷たい世間の目もあっただろうし、なによりも猛烈な食料難が待っていた。あの頃を知る人ならば、作者が切っている缶詰が、どんなに貴重品だったかはおわかりだろう。その貴重品を食べることにして、ていねいに「こきこきこき」と切る気持ちには、複雑なものがある。「こきこきこき」の音が、名状しがたい気持ちをあらわしていて、切なくも悲しい。身の自由が、すべて楽しさにつながるわけじゃない。こきこきこき、そして、きこきこきこ、……。この「罐」を切る音が、いつまでも心の耳に響いて離れない。『合本俳句歳時記・新版』(1988・角川書店)所載。(清水哲男)


October 08102002

 石榴淡紅雨の日には雨の詩を

                           友岡子郷

語は「石榴(ざくろ)」で秋。「淡紅(たんこう)」は、句の中身から推して、晴れていれば鮮紅色に見える石榴の種が、雨模様にけぶって淡い紅に見えているということだろう。句の生まれた背景については、作者自身の弁がある。「今にも降り出しそうな空模様だった。吟行へ連れ立ったグループのひとりが、それを嘆いた。私は励ますつもりでこう言った。『いいじゃないの、雨の日には雨の句をつくればいい』と」(友岡子郷『自解150句選』2002)。俳句の人は、吟行ということをする。俳句をつくる目的で、いろいろなところを訪ね歩く。私のように詩を書いている人間は、そうした目的意識をもってどこかを訪れることはしないので、俳人の吟行はまことに不思議な行為に写る。だから、こういう句に出会うと、一種のショックを受けてしまう。俳人も詩人も同じ表現者とはいっても、表現に至る道筋がずいぶんと違うことがわかるからだ。天気のことも含めて、俳人は事実にそくすることを大切にする。ひるがえって詩人は、晴れた日にも、平気で「雨の詩」を書く。だからといって、なべて詩人は嘘つきであり、俳人は正直者だとは言えないところが面白い。その意味で、掲句は私にいろいろなことを思わせてくれ、刺激的だった。日常会話的に読めば凡庸にも思えるかもしれないが、俳句が俳句であるとはどういうことかという観点から読むと、私には興味の尽きない句である。吟行論を書いてみたくなった。『翌(あくるひ)』(1996)所収。(清水哲男)


October 07102002

 とつぜんに嘘と気づいて薮虱

                           岡田史乃

薮虱
語は「薮虱(やぶじらみ)」で秋。名前は知らなくても、写真から思い当たる方も多いだろう。山道や野原を歩いていると、いつの間にか薮虱の実が衣服についていることがある。動物にも付着し、この植物が種をばらまくための知恵と言ってよい。そんな薮虱がついていることに「とつぜん」気づくように、誰かに騙されていたことに気づいたというのである。こういうことは、よく起きる。笑い話程度の嘘のこともあれば、深刻な中身をはらんだ嘘のこともある。とにかく、とつぜんに「ふっ」と気がつくのだ。嘘ばかりではなく、なかなか思い出せなかった人の名前や地名など、これはいったい如何なる脳の仕組みから来るものなのだろうか。句に戻れば、嘘の中身は薮虱の実が簡単には払い落とせないことからすると、笑ってすませられるようなものではないことがうかがえる。不愉快を覚えて力任せに払い落としてみるが、たとえ実だけは落ちたとしても、何本かのトゲが残ってしまう薮虱のように後を引く嘘なのだ。嘘と薮虱。取り合わせの妙に、作者の感度の良さを称賛しないわけにはいかない。写真は、青木繁伸(群馬県前橋市)氏の撮影によるが、部分を使わせていただいた。薮虱の花の写真は多いのだけれど、命名の所以である実の写真は意外に少ない。『浮いてこい』(1983)所収。(清水哲男)




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