October 182002
雁わたし猫はなま傷舐めてゐる
渡部州麻子
季語は「雁わたし」で秋。「青北風(あおきた)」とも呼ばれ、ちょうど雁がわたってくるころに吹くので、雁わたし(雁渡し)と言う。手元の歳時記を見ると、陰暦八月ごろに吹く北風のこととある。いまは、陰暦の九月だ。仕事で天気の様子と毎日つきあっているからわかるのだが、東京あたりでは例年、陽暦十月の今頃になると、北風の吹く日が多くなってくる。これがおそらく「雁わたし」だろうと、私は勝手に決めつけています。こいつが吹き始めると、朝夕はめっきり冷え込んでくる。日中いかに良く晴れて暖かくても、吹く風にどこか冬の気配が入り交じってくる。そんなある日に、猫が「なま傷」を舐めているという情景。喧嘩でもしてきたのだろう。自分の傷を自分で癒しているわけだが、健気でもあり寂しくも写る情景だ。寒い季節がやってくると、とくに猫は不活発になる。そう思えば、この負け戦でこの猫の活発な時期も終わりになるのかもしれない。そしてこのことは、「猫が」ではなく「猫は」の「は」によって、他の生きとし生けるものすべてに通じていく。いまのうちに「なま傷」は舐めておかなければ、みずからの力で癒しておかなければ……。来たるべき冬に対する、いわば本能的な身繕い、身構えの姿勢の芽生えを、さりげなく演出してみせた佳句である。今年度俳句研究賞候補作品「耳ふたつ」五十句の内。「俳句研究」(2002年11月号)所載。(清水哲男)
December 212002
なほ赤き落葉のあれば捨てにけり
渡部州麻子
近所に見事な銀杏の樹があって、たまに落葉を拾ってくる。本の栞にするためである。で、拾うときには、なるべく枯れきった葉を選ぶ。まだ青みが残っているものには、水分があるので、いきなり本に挟むと、ページにしみがついてしまうからだ。私の場合は、用途が用途だけに、一枚か二枚しか拾わない。ひるがえって、掲句の作者の用途はわからないが、かなりたくさん拾ってきたようである。帰宅して机の上に広げてみると、そのうちの何枚かに枯れきっていない「赤き」葉が混じっていた。きれいだというよりも、作者は、まだ葉が半分生きているという生臭さを感じたのだろう。私の経験からしても、表では十分に枯れ果てたと見えた葉ですら、室内に置くと妙に生臭く感じられるものだ。そんな生臭さを嫌って、作者は「赤き」葉だけではなく、その他も含めて全部捨ててしまったというのである。全部とはどこにも書かれていないけれど、「捨てにけり」の断言には「思い切って」の含意があり、そのように想像がつく。と同時に、捨てるときにちらっと兆したであろう心の痛みにも触れた気持ちになった。「赤」で思い出したが、細見綾子に「くれなゐの色を見てゐる寒さかな」があり、評して山本健吉が述べている。「こんな俳句にもならないようなことを、さりげなく言ってのけるところに、この作者の大胆さと感受性のみずみずしさがある」。句境はむろん違うのだけれど、掲句の作者にも一脈通じるところのある至言と言うべきか。「俳句研究」(2003年1月号)所載。(清水哲男)
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