週間天気予報によれば、東京でも20度を切る日がちらほらと。さあ、鍋の季節が来るぞ。




2002ソスN10ソスソス22ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 22102002

 秋霖や右利き社会に諾へり

                           大塚千光史

マウス
語は「秋霖(しゅうりん)」で、秋雨よりも寂しい語感を含む。さて、作者は左利きだ。古来、洋の東西や人種の差異を問わず、左利きの人は一割くらいいるそうだ。最近は左利きの人をよく見かけるようになったけれど、これは子供の頃に親が強制して右利きに直さなくなったからで、左利き人口が特に増えてきたわけではないらしい。一割しかいないのだから、当然のように、この世は「右利き社会」になっている。鋏だとかドアのノブ、あるいは駅の自動改札口など、多くのものが右利き用にできている。パソコンのキーボードにしても、両手を使うから右も左も関係ないように見えて、実はある。右側にしかないenter(もしくはreturn)キーの位置だ。このキーは、何かを決定するときに押す。決定は、利き手で下したいのが人情だろう。したがって、わざわざ右側に配置してあるというわけだ。万事がこのようだから、左利きの人は物理的心理的に不満を感じながらも、右利き社会に「諾(うべな)」つて、つまり服従して暮らすほかはないわけだ。句はそんな我が身を慨嘆しているが、具体的なきっかけがあっての嘆きのはずだと、いろいろと考えてみた。雨と左利きとの関係で、考えられる道具としては傘が浮かんでくる。はじめは傘を持ちながらノブを回すようなときの不便さかとも思ったが、これは右利きにしても不便なので、根拠としては薄弱だろう。で、思いついたのが、傘をたたんで建物に入るときのことだった。たいていの人は、傘を巻くか、きちんと巻かないまでもボタンくらいは止めるだろう。やってみるとわかるように、左手で巻くのはとても難しい。雨のたびにこの不便さを感じさせられるのだから、右手社会に服従させられていると恨んで当然である。写真は、アメリカの通販カタログで見つけた左利き用のマウス。全体として左側に傾斜している。『木の上の凡人』(2002)所収。(清水哲男)


October 21102002

 釣月軒隣家の柿を背負ひをり

                           星野恒彦

釣月軒
蕉の生家(三重県上野市)の奥の離れが「釣月軒(ちょうげつけん)」。粋な命名だ。『貝おほひ』執筆の書斎であり、その後も帰省するたびに立ち寄っている。生家とともに当然のように観光名所になっているが、私は行ったことなし。ただ、写真はそこら中に溢れているので、行かなくても、だいたいの様子はわかったような気になっていた。しかし、掲句ではじめて「隣家(となり)」に大きな柿の木があることを知り、私の中のイメージは、かなり修正されることになる。まさか芭蕉の時代の柿の木ではないにしても、柿を植えるような庭のある隣家と接していたと思えば、にわかに往時の釣月軒のたたずまいが人間臭さを帯びてきたからだ。観光用や資料用の写真では、私の知るかぎり、この柿の木は写っていない。「背負ひをり」と言うくらいだから、この季節だと写り込んでいてもよさそうなものだが、写っていたにしても、すべてトリミングで外されているとしか思えないのだ。なぜ、そんな馬鹿なことをするのだろう。釣月軒であれ何であれ、建物は周囲の環境とともにあるのであって、それを写さなければ情報の価値は半減してしまうのに……。俳句は写真ではないけれど、作者はただ見たままにスナップ的に詠んだだけで、軽々と凡百の写真情報を越えてしまっている。釣月軒を見たこともない私に、そのたたずまいが写真よりもよく伝わってくる。「背負ひをり」はさりげない表現だが、建物のありようをつかまえる意味において、卓抜な措辞と言うべきだろう。写真は、よくある釣月軒紹介写真の例。『麥秋』(1992)所収。(清水哲男)


October 20102002

 萩の家わずかな水を煮ていたり

                           下山光子

冠に秋と書いて「萩」。古来、秋を代表する花とされてきた。『枕草子』に「萩、いと色深う枝たをやかに咲きたるが、朝露に濡れてなよなよと広ごり伏したる……」とあるように、凛とした姿ではない。「たをやか」「なよなよ」とした風情が、この季節のどことなく沈んだような空気に似合うのである。そんな萩を庭や垣根に咲かせている家は、たとえば薔薇の庭を持つ家などとは違って、とてもつつましく写る。住んでいる人を知らなくても、暮らしぶりまでもがつつましいのだろうと思われてくる。作者もまた、単に通りがかっただけなのだろう。「煮ていたり」とは書いているが、実際に台所を見たのではなく、つつましやかな「萩の家」の風情から来た想像だと、私には読める。こういう家では、こういうことが行われているのが相応しいとイメージして、詠んだのだと思う。水はふつう「煮る」とは言わず、「沸かす」と言う。が、そこをあえて「煮る」と言ったのは、「沸かす」の活気を押さえたかったからに違いない。「わずかな水」なのだから、この人は一人暮らしだ。自分のためだけの水を、ひとりひっそりと煮ている姿を想像して、作者は「萩の家」の風情に、いつそうの奥行きを与えたのである。『句読点』(2002)所収。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます