劇場を押さえるなどは昔の必死の反抗の文法にもなかった。この必死にどう応答するのか。




2002ソスN10ソスソス25ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 25102002

 長き夜やパラパラ漫画踊らせて

                           石田たまみ

着の「俳句界」(2002年11月号)が「新鋭俳人大競詠」を組んでいる。好奇心にかられて、それこそパラパラとページをめくっていたら、この句が目に飛び込んできた。いや、正しくは「パラパラ漫画」の文字が、飛び込んできたのだった。懐しや。パラパラ漫画は、アニメーションの原点だ。一枚一枚の紙に、少しずつ動きをずらした絵を描いておき、それらをきちんと重ねてから、指でパラパラと弾くようにめくると絵が動く仕掛けである。子供のころに熱中したことがあって、主として製本のしっかりした教科書の左右の余白を使い、たとえば上から降りてくる落下傘などを一コマずつ描いては動かして、悦に入っていたものである。「残像現象」という難しげな言葉も、誰かに教わってそのころに覚えたことを思い出した。テレビもなかったし、漫画映画もあるにはあったが、めったに見る機会はなかったので、私の初期のアニメ体験は、ほとんどが教科書の余白に詰まっている。そんなふうだったので、テレビに『鉄腕アトム』が登場すると聞いたときには、ひどく興奮した。テレビがなかったので、近所の人にお願いして見せてもらった。そのころはもう、大学生だったけれど感動しましたよ。なにしろ、手塚さんの作り方も、まさにパラパラ漫画と原理は同じで、一枚一枚アトムの動きをセルに描いていたのですから……。そんなパラパラ漫画を素材にした掲句の作者の生年を見ると、私よりは二十年ほど若い人だった。秋の夜長に、パラパラと漫画の主人公を「踊らせて」いる人の姿を想像して、私は理屈抜きに素敵だなと思ってしまう。そして、こんな感想も「あり」という俳句にもまた。(清水哲男)


October 24102002

 定年やもみじはらはらうらおもて

                           八木忠栄

語は「紅葉散る」でもよいけれど、当サイトとしては「紅葉かつ散る」に分類しておきたい。紅葉している木もあれば、散っている木もあるという意味だ。すなわち、定年に達した自分もいるし、もうすぐ定年になる同僚もいるというのが会社というところである。このところ、定年を迎える友人知己が増えてきた。作者も、その一人だ。挨拶状を受け取るたびに、なんだか自分も定年を迎えたような気分になる。そんな年齢になってしまったのだ。サラリーマンを早くに止めてしまった私には、定年者の感慨はもちろん想像してみる他はない。人それぞれではあろうけれど、案外、共通した思いもありそうだと思う。会社組織が似たような構造を持つ以上、そこを離れる者にも似たような感想も生まれるのではあるまいか。掲句は、そういうことを言っているような気がする。すなわち、個人的な感慨はとりあえず別にして、定年者一般の心持ちを美しく散り逝く「もみじ」の光景に託している。作者も「はらはらと」散った葉の一枚にはちがいないけれど、どの葉が自分であるのかはわからない。散り敷いて、「うら」になっている葉もあれば「おもて」のものもある。「うらおもて」などは、なおさらにわからない。しかし、そんなことはどうでもいいのさ。みんな、お互いによく働いたね。なお「はらはらと」散る紅葉を浴びながら、作者は心の内で、そう呼びかけている。個人誌「いちばん寒い場所」(2002年・40号)所載。(清水哲男)


October 23102002

 草原に人獣すなおに爆撃され

                           阪口涯子

季句。かつての大戦中の作品で、往時の作者は中国の大連にいた。作句年度は古いけれど、この世に戦争があるかぎり、掲句は古びることはないだろう。戦争は「人」のみを殺すのではない。「獣」もまた、殺されていく。殺されるという意味では、人も獣も同じ位置にある生き物なのであって、ひとくくりに「人獣」でしかない。果てしなく広がる草原の上空に、突如爆撃機の黒い編隊が現れ、容赦なく大量の爆弾を投下しはじめる。といっても、敵が何もない草原を攻撃するはずもないから、そこには町があり工場や学校があり、そして基地がある。むろん、人もいて獣もいる。それら攻撃対象を、まるで何もない場所であるかのようにアタックする感覚には、眼下に展開する風景はただの「草原」にしか見えないだろうし、攻撃される側にしても、その無防備に近い状態において、さながら「草原」に身をさらしているように感じられるということだ。すなわち「すなおに」爆撃されるしかないのである……。このときに「すなおに」とは、何と悲しい言葉だろうか。苛烈な現実を声高に告発するのではなく、現実を透明で無音の世界に引き込んでいる。この句には、爆撃の閃光もなければ轟音もないことに気がつく。しかし、現実として人獣は確かに死んでいくのである。今日、作者の涯子(がいし)を知る人は少ないだろうが、高屋窓秋の盟友であり、新興俳句の旗手であった。もっと読まれてよい俳人だ。『北風列車』(1950)所収。(清水哲男)




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