冬時間に切り替わった国がある。冬時間にするのは国々の勝手になっているのですかね。




2002ソスN10ソスソス29ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 29102002

 月明の毘沙門坂を猪いそぐ

                           森 慎一

句碑
名的には正式な呼称ではないようだが、「毘沙門坂(びしゃもんざか)」は愛媛県松山市にある。松山城の鬼門にあたる東北の方角に、鎮めのために毘沙門天を祀ったことから、この名がついた。さて、掲句はおそらく子規の「牛行くや毘沙門坂の秋の暮」を受けたものだろう。写真(愛媛大学図書館のHPより借用)のように、現地には句碑が建っている。百年前の秋の日暮れ時に牛が行ったのであれば、月夜の晩には何が行ったのだろうか。そう空想して、作者は「猪(い・いのしし)」を歩かせてみた。子規の牛は暢気にゆっくり歩いているが、この句の猪はやけに早足だ。「い・いそぐ」の「い」の畳み掛けが、猪突猛進ほどではないが、そのスピードをおのずと物語っている。何を急いでいるのかは知らねども、誰もいない深夜の「月明」の坂をひた急ぐ猪の姿は、なるほど絵になる。さらに伊予松山には、狸伝説がこれでもかと言うくらいに多いことを知る人ならば、この猪サマのお通りを、狸たちが息を殺して暗い所からうかがっている様子も浮かんでくるだろう。月夜の晩は狸の専有時間みたいなものだけれど、猪がやって来たとなれば、一時撤退も止むを得ないところだ。いたずら好きの狸も、猪は生真面目すぎるので、苦手なのである。そんなことをいろいろと想像させられて、楽しい句だ。こういう空想句も、いいなあ。『風丁記』(2002)所収。(清水哲男)


October 28102002

 冬瓜と帽子置きあり庫裏の縁

                           北園克衛

語は「冬瓜」で秋。秋に実って冬場まで長持ちするので、この名がついたという。ずんぐりむっくりしていて、煮物にしたりするが、そのものの味は薄い。作者の北園克衛は、モダニズム詩の第一人者。出たばかりの「現代詩手帖」(2002年11月号)が、生誕百年を記念して特集を組んでいる。なかに、没後に藤富保男が編纂した句集『村』(1980)の話題があり、小澤實が紹介を兼ねた文章を寄せている。北園に俳句があることは仄聞していたけれど、原石鼎門であったことは、この特集ではじめて知った。石鼎の主宰誌「鹿火屋」には、ひところ毎号のように詩を書いていたそうだ。ところで、小澤氏は「庫裏(くり)」を本意のままに台所と読んでいるが、これは転じた意味での居間ないしは住居のほうだろう。すなわち「縁」は縁側であって、寺の縁側に、訪ねてきた人の「帽子」と「冬瓜」がぽつねんと置かれている。秋真昼、人影はない。ただ、それだけのことである。しかし、それだけのことが伝えてくるイメージは、いかにもこの国の寺に固有の雰囲気だ。おそらくはソフト帽であろう帽子からは訪問者の人品骨柄がうかがわれるので、傍らにある茫洋とした冬瓜からはミスマッチのとぼけた可笑しみが感じられる。そういえば、私たちの親しい寺にはどこか、こんな具合にいかめしくない情景がついてまわっている。作者は一流のデザイナーでもあったから、このような物の配置は得意中の得意だったと思う。主宰詩誌「VOU」のデザインも素敵だったなア。まだ木造だった新宿紀伊国屋書店で、私がいちばんはじめに買った詩誌が「VOU」であった。(清水哲男)


October 27102002

 頂上や殊に野菊の吹かれ居り

                           原 石鼎

んなに高い山の「頂上」ではない。詠まれたのは、現在は深吉野ハイキングコースの途中にある鳥見之霊時(とみのれいじ)趾あたりだったというから、丘の頂きといったところだろう。鳥見は神武天皇の遺跡とされている。秋風になびく草々のなかで、「殊(こと)に」野菊の揺れるさまが美しく目に写ったという情景。ひんやりとして心地よい風までもが、読者の肌にも感じられる。句は大正元年(1912年)の作で、当時は非常に斬新な句として称揚されたという。何故か。理由は「頂上や」の初五にあった。山本健吉の名解説がある。「初五の や留は、『春雨や』『秋風や』のような季語を置いても、『閑さや』『ありがたや』のような主観語を持ってきても、一句の中心をなすものとして感動の重さをになっている。それに対して『頂上や』はいかにも軽く、無造作に言い出した感じで、半ば切れながらも下の句につながっていく。その軽さが『居り』という軽い結びに呼応しているのだ。『殊に』というのも、いかにも素人くさい。物にこだわらない言い廻しである。そしてそれらを綜合して、この一句の持つ自由さ、しなやかさは、風にそよぐ野菊の風情にいかにも釣り合っている」。言い換えれば、石鼎はこのときに、名器しか乗せない立派な造りの朱塗りの盆である「や」に、ひょいとそこらへんの茶碗を乗せたのだった。だから、当時の俳人はあっと驚いたのである。いまどきの俳句では珍しくもない手法であるが、それはやはり石鼎のような開拓者がいたからこそだと思うと、この句がいまなお俳句史の朱塗りの盆に乗せられている意味が理解できる。『花影』(1937)所収。(清水哲男)




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