♪ソソラソラソラ、ウサギノダンス…。下手糞な歌詞だと罵倒したのはサトーハチロー。




2002ソスN10ソスソス31ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 31102002

 客われをじつと見る猫秋の宵

                           八木絵馬

句を読む楽しさの一つは、情景が描かれていない句の情景を想像することだ。たとえば掲句では、猫に「じつと」見つめられていることはわかるけれど、シチュエーションはわからない。どんなシーンでの句なのか。まず手がかりになるのは「客」だろう。しかし客にも二種類あって、他家を訪れているのか、それとも猫がいるような古くて小さな商店にでも入っているのか。どちらとも取れるし、どちらでもよい。だが、次なるキーワード「秋の宵」と重ねてみると、かなり輪郭がはっきりしてくると思う。そぞろ寒く侘しい雰囲気の宵……。となれば、古本屋だとか古道具屋のイメージが浮かんでくる。ふらりと入った小さな店には、他の客の姿はない。物色するともなく商品を眺めているうちに、ふと視線を感じた。こうした店の主人は客を「じつと」見ることはしないのが普通だから、いぶかしく思って視線の方角を見ると、こちらを注視している猫と目が合ったのである。見返しても、猫はいっこうに視線をそらさない。万引きでもしやしないかと見張られているようで、いやな感じだ。このときに「客われを」の「われを」に込められているのは、「こっちは客なんだぞ、失敬な」という気持ちだろう。それでなくとも侘しい秋の宵の気分が、猫のせいで、ますます侘しくなってしまった……。『合本俳句歳時記』(1997・角川書店)所載。(清水哲男)


October 30102002

 神無月主治医変はりてゐたりけり

                           秋本ひろし

語「神無月(かんなづき)」は陰暦十月の異称なので、冬に分類。今年は来週の火曜日、十一月五日が朔日にあたる。作者は、定期的に診察を受けている人だ。いつものように出かけていったら、主治医が変わっていた。前回の診察のときには、交替するなど聞いていないし、その気配すらなかったから、狐につままれたような気分だ。何かよほどの事情があっての、急な交替なのだろうか。が、新しい主治医に、根掘り葉掘り尋ねるわけにもいかない。私には経験がないけれど、長い間診てもらっていた医者が前触れもなしにいなくなるのは、かなり心細いことだろう。カルテは引き継がれても、蓄積された信頼の心や親愛感は引き継がれないからである。なんとなく釈然としない気持ちのままに診察が終わり、ふと今が「神無月」であることに気がついたのだった。まさか前任者を神のように崇めていたわけではないが、神様ですら忽然と不在になる月なのだからして、医者がひとり姿を消したとしても不思議ではないかもしれない……。とまあ、妙な納得をしているところが読ませる。とかく生真面目に重たく詠まれがちな神無月を、本意を歪めることなく軽妙に詠んでいて、しかもペーソスが滲み出ている。現代的俳諧の味とは、たとえばこういうものであろう。『棗』(2002)所収。(清水哲男)


October 29102002

 月明の毘沙門坂を猪いそぐ

                           森 慎一

句碑
名的には正式な呼称ではないようだが、「毘沙門坂(びしゃもんざか)」は愛媛県松山市にある。松山城の鬼門にあたる東北の方角に、鎮めのために毘沙門天を祀ったことから、この名がついた。さて、掲句はおそらく子規の「牛行くや毘沙門坂の秋の暮」を受けたものだろう。写真(愛媛大学図書館のHPより借用)のように、現地には句碑が建っている。百年前の秋の日暮れ時に牛が行ったのであれば、月夜の晩には何が行ったのだろうか。そう空想して、作者は「猪(い・いのしし)」を歩かせてみた。子規の牛は暢気にゆっくり歩いているが、この句の猪はやけに早足だ。「い・いそぐ」の「い」の畳み掛けが、猪突猛進ほどではないが、そのスピードをおのずと物語っている。何を急いでいるのかは知らねども、誰もいない深夜の「月明」の坂をひた急ぐ猪の姿は、なるほど絵になる。さらに伊予松山には、狸伝説がこれでもかと言うくらいに多いことを知る人ならば、この猪サマのお通りを、狸たちが息を殺して暗い所からうかがっている様子も浮かんでくるだろう。月夜の晩は狸の専有時間みたいなものだけれど、猪がやって来たとなれば、一時撤退も止むを得ないところだ。いたずら好きの狸も、猪は生真面目すぎるので、苦手なのである。そんなことをいろいろと想像させられて、楽しい句だ。こういう空想句も、いいなあ。『風丁記』(2002)所収。(清水哲男)




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