地元成蹊学園の気象観測では、このところの最低気温が4度前後。都心よりも2度は低い。




2002ソスN11ソスソス6ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 06112002

 紅葉づれる木にターザンの忘れ綱

                           服部たか子

ターザン
しいな、ターザン。イギリス貴族の末裔にして、ジャングルの王者。五十代半ば以上の世代で、この有名人を知らない人はいないだろう。「アーアーアー」と雄叫びを上げながらジャングルを駆け回り、蔓を使って枝から枝へと飛び移り、人食いワニのいる河などものともせずに泳ぎきる。これぞ正義の味方、世界最強の男。五輪の水泳選手だったワイズミュラー主演の映画は十二本制作されているが、ほとんどが日本でも公開されたのではなかろうか。私は学校の巡回映画で、そのうちの何本かしか見ていない。遊び道具など何もなかったころ、男の子はすぐに影響されて「ターザンごっこ」に突っ走った。なにしろシチュエーションとして、周囲に人工的なものがなければないほどよいのだから、山の子には好都合だったということもある。いくらでも、ジャングルに見立てられる場所があった。いちばん熱心にやったのが、木の枝に蔓ならぬ縄をくくりつけてぶら下がり、枝から枝へ飛ぶのはさすがに恐かったので、思いきり弾みをつけて遠くまで飛ぶ遊び。このときに、柿の枝が折れやすいことを実感として知った。掲句の作者は「紅葉(もみ)づれる」(紅葉しつつある)木の枝に、子供らのターザンごっこの痕跡を認めて微笑している。「紅葉づれる」という古語と「ターザン」の今風語との取り合わせが面白い。作句意図とは別に、俳句はよくこのように時代の流行り物や風俗習慣などを後世に残す装置でもある。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


November 05112002

 秋の淡海かすみて誰にもたよりせず

                           森 澄雄

天気。「淡海(おうみ)」は「近江」であり、淡水湖を意味するから、作者は琵琶湖畔にいる。秋の好天は、透明な冷気を伴って清々しい。大気も澄み渡っていて、はるか彼方までクリアーに遠望できる。しかし、琵琶湖のような大きな湖ともなると、立ち上る水蒸気が多量のために、かえって遠目が利かなくなるときがある。まるで春の霞がかかったように、ぼおっとかすんでしまう。そんな情景だろう。作者の立つ岸辺は秋たけなわでありながら、指呼の間には爛漫の春があるように感じられる……。陶然たる気分になるというよりも、何か異界に遊んでいるような不思議な心持ちなのだ。「誰にもたよりせず」で、作者がこの地に長く逗留していることが知れる。少なくとも、二泊三日程度の短い旅ではないだろう。元来ならば友人知己のだれかれに、旅情を伝える「たより」をするところだけれど、ついに「誰にも」していない。あまりの淡海の自然の素晴らしさに心を奪われて、なんだか人間界とはひとりでに切れてしまったような気持ちである。寂しくもなければ、孤独とも感じない。大いなる自然のなかに溶け込んでいる至福とは、このような境地を指すのではなかろうか。私には漂泊への憧憬はないのだけれど、掲句には漂泊への誘いが含まれているようにも思われた。『浮鴎』(1973)所収。(清水哲男)


November 04112002

 此秋は何で年よる雲に鳥

                           松尾芭蕉

が間近の元禄七年(1694年)九月二十六日、大坂清水での作句。詞書に「旅懐」とある。「何で年よる」の「何で」の口語体に、ただならぬ身体の不調感がよく表われていて、いたましい。「此(この)秋は」、どういうわけで、こんなにも急に老け込んだ感じがするのだろうか。「何故に」ではなく「何で(やろか)」とくだけた物言いのなかに、自問自答の孤独性が滲み出る。誰にせよ、自問自答に文語を使用することはしないだろう。文語はあくまでも他者を意識した表現なのだから、つまり他所行きの言葉なのだから、だ。そして、この「何で」は、皆目見当がつかないという意味でもない。ある程度の心当たりは、これまた誰にでもあるのが普通だ。芭蕉の場合には、愛弟子の人間関係のこじれを、放っておけば関西蕉門の分裂につながりかねないと、自ら調停に乗りだして失敗したことが言われている。「座の文芸」には、参加者の人間関係によって盛り上がりもすれば崩壊もするという生臭さがつきまとう。このときの芭蕉には、今で言えば相当にストレスの溜まった状態がつづいていたわけで、それが身体の弱りをなお促進したと考えてよいだろう。こういうときには、人間は「何で(こうなのか)」と精神的にも天を仰ぐしかない。で、そこには「雲に(消え逝く)鳥」があったと結んだ下五文字について、「寸々の腸(はらわた)をしぼる」と述べている。苦吟もここに極まり、最後の力を振り絞って振り出したような鳥の孤影への飛躍的表現が、「何で」の個人的な思いの切実さに、濃い輪郭と深い客観性とを与えることになった。(清水哲男)




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