November 072002
初冬のけはひにあそぶ竹と月
原 裕
立冬。冬来たる。暦の上のことだけではなくて、今年は体感的にも納得できる。部屋に暖房を入れてから立冬を迎えるなど、何年ぶりだろうか。メモを見てみたら、昨年は11月19日に初暖房とあった。さて、これから本格的な冬に向かって、我ら人間族は日々かじかんでいくことになる。多くの動植物も、そうだ。そんななかで、むしろ寒ければ寒いほど元気な姿になるものといえば、たとえば掲句に詠まれた「竹と月」だろう。冬の月は皓々と冴えわたり、竹の緑はいっそう色鮮やかとなる。「初冬(はつふゆ)のけはひ(気配)」に「あそぶ」と見えて、当然なのだ。一見地味な句と写るけれど、これぞ自然をよく見つめた花鳥諷詠句のお手本、THE HAIKUだと思う。かじかむ自分の気持ちや様子をもって季節の移り行きをつかまえるのではなく、大きな自然を自然のままに語らせることにより、それを表現している。もとより「あそぶ」の措辞は作者の主観に属するが、これはそうした自然とともに「私があそぶ」の意が強いのであり、ことさらに月と竹を擬人化しているわけではない。白状すれば、私にはまったくと言ってよいほどに、掲句のような自然に対する感覚というのかセンスが欠けている。どこを叩いても、こうした発想を得ることができない。だから余計にTHE HAIKUだなあと、感心することしきりなのである。『新日本大歳時記・冬』(1999・講談社)所載。(清水哲男)
November 092008
生きるの大好き冬のはじめが春に似て
池田澄子
詩人の入沢康夫がむかし、「表現の脱臼」という言葉を使っていました。思いのつながりが、普通とは違うほうへ持っていかれることを、意味しているのだと思います。もともと創作とはそのような要素を持ったものです。それでも脱臼の度合いが、特に気にかかる表現者がいます。わたしにとって俳句の世界では、池田澄子なのです。読んでいるとたびたび、「読み」の常識をはずされるのです。それもここちよくはずされるのです。「生きるの大好き」と、いきなり始める人なんて、ほかにはいません。特に「大好き」の「大」が、なかなか言えません。もちろん内容に反対する余地はなく、妙に幸せな気分になるから不思議です。生死(いきしに)について、どのように伝えようかと、古今の作家が思い悩んでいるときに、この作者はあっけらかんと、直接的なひとことで済ましてしまいます。では、なんでも直接的に対象に向かえばよいのかというと、それほどに単純なものではなく、ものを作るとは、なんと謎に満ちていることかと思うわけです。ともあれ、読者としては気持ちよく関節をはずされていれば、それでよいのかもしれません。『角川俳句大歳時記 冬』(2006・角川書店)所載。(松下育男)
November 072009
初冬の徐々と来木々に人に町に
星野立子
いきなり真冬の寒さかと思えば、駅まで足早に歩くと汗ばむほどの日もあり、季節の変わり目とはいえ、めまぐるしい一週間が過ぎて、今日立冬。その間に月は満ちたが、暁の空に浮かぶ満月はすでに透きとおった冬色だった。立子は、冬の気配が近づいてから立冬、初冬と過ぎてゆく十一月を特に好んだという。なつかしい匂いがする、とも。掲出句にあるように、いち早く黄葉して散る桜を初めとして、木々の色の移り変わりにまず冬を感じるのは、都会の街路樹でも同じだろう。落ち葉風にふかれ襟元を閉じて歩く人。そして町全体がだんだん冬めいてくることを、どこか楽しんでいるような作者。「初冬の徐々と来(く)」といったん切って、それから町がじんわり冬になっていく様を詠んでいるが、字余りで、一見盛りだくさんなようだけれど、リズムよく、「徐々」感が伝わってくる。この句に並んで〈柔かな夜につゝまれて初冬かな〉とある。なるほど好きな季節だったのだな、と思った。「立子四季集」(1974・東京美術)所載。(今井肖子)
November 162010
初冬や触るる焼きもの手織もの
名取里美
キャサリン・サンソムの『LIVING IN TOKYO』は、イギリスの外交官である夫とともに昭和初期に日本に暮らした数年をこまやかな視線で紹介した一冊である。そのなかで、ある日本人の姿として店に飾られている一番高価な着物を、買えるはずもない田舎の女中のような娘があかぎれの手で触れているのを見て驚く。そして「日本では急き立てられることもなく、娘は何時間でも好きなだけ着物に触ったりじっと眺めていることができます」と、誰もが美しいものに触れることのできる喜びを書いている。布の凹凸、土のざらつき、どれも手から伝わる感触が呼び起こすなつかしさがある。わたしたちはそれぞれの秘めたる声に耳を傾けるように手触りを楽しむ。初冬とは、ほんの少し寒さが募る冬の始まり。まだ震えるほどの寒さもなく、たまには小春のあたたかさに恵まれる。しかし、これから厳しい冬に向かっていくことだけは確かなこの時期に、ふと顔を出す人恋しさが「触れる」という動作をさせるのだろう。動物たちが鼻先を互いの毛皮にうずめるように、人間はもっとも敏感な指先になつかしさを求めるのかもしれない。〈産声のすぐやむ山の花あかり〉〈つぎつぎに地球にともる螢の木〉『家』(2010)所収。(土肥あき子)
December 262014
正月は留守にする家鶲来る
小川軽舟
正月の留守は実家への帰郷とか連休利用の旅行など普段の生活拠点を離れる事が多くなる。十月を過ぎる頃にはそんな正月の予定をあれこれ立てる。ふいと「ヒッヒッ」と火打石を打つ音に似た鳥の鳴き声が聞えた。尉鶲(ジョウビタキ)である。例年通り渡来し例年通りわが家の庭木に止まった。そんな律義さがこの鳥にはある。オスは赤褐色の腹部や尾が鮮やかで翼の黒褐色とそこにある白い斑点がしゃれている。よく目に留まる高さに飛びまわるので目につきやすい。今年もやって来たなと安心しつつも人は自らの旅の準備に思いをはせる。旅は良い、心細くなるような冬の旅が良いと飽食の都会生活にこころ腐らせた身には思えるのである。他に<初冬や鼻にぬけたる薄荷飴><しぐるるや近所の人ではやる店><綿虫のあたりきのふのあるごとし>などあり。「俳句」(2013年2月号)所載。(藤嶋 務)
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