『現代用語の基礎知識』の附録がどんなものかと確かめたかったが、紐で縛ってあった。




2002ソスN11ソスソス17ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 17112002

 鶫焼しんじつ骨をしやぶるのみ

                           泉田秋硯

の句で鮮烈なのは「しやぶる」という行為だ。最近の日本人はまず、しゃぶることをしなくなったと思う。骨付きの肉をしゃぶる人などは、小さな子供を含めてもいなくなったのではなかろうか。私自身も、いつしかしゃぶることをしなくなっている。放送の仕事のために、よく喉飴は舐めるけれど、幼かったときのようにしゃぶったりはしない。そういう構えで食物を口に入れたのは、二十代も前半くらいまでだった。あのころは句のように、なんでも「しんじつ」しゃぶるか、しゃぶりたいのに見栄を張って我慢したかの、どちらかだった。いまどき「鶫焼(つぐみやき)」と言われると、なんだか高級料理みたいに思えるかもしれないが、なんのことはない、ごく普通の屋台にあった焼鳥である。それを「しんじつ」しゃぶっていたのは、たいがい安サラリーマンか学生だった。「つけ焼きにしているのだが何しろ肉は殆どない。焼鳥と大きな声で注文したものの、『これ何じゃい』という代物である。骨をしゃぶって『たれ』の味を舌で味わうだけのものであった。昔は日本もそれほど貧しかった」と、作者は近著(自句自解シリーズ『泉田秋硯集』牧羊新社)で書いている。よく、わかる。ここに掲句を持ちだしたのは、かといって、いわゆる飽食の時代を非難したりするつもりからではない。素朴に、「しやぶる」ことを忘れてしまった人間の未来のありように興味と関心を抱いたからだ。「しんじつ」、感性や思考に影響が出てくるだろう。いや、もう出始めているのかもしれない。季語は「鶫焼」=「焼鳥」なので、冬の「焼鳥」に分類しておく。『月に逢ふ』(2001)所収。(清水哲男)


November 16112002

 蘭の香やむかし洋間と呼びし部屋

                           片山由美子

前に建てられた母方の実家に「洋間」があった。カーペットが敷かれ、シャンデリアが吊るされ、ソファが置かれ、ピアノと電蓄とがあった。大きなガラス窓が、障子に慣れた目には珍しかった。掛けられていた絵は、むろん「洋画」である。ただ、あまり使われていなかったようで、なんだかいつもヒンヤリとしていた記憶がある。ところで、作者の家には、まだこうした「むかし」ながらの洋間があるのだろう。他の部屋は和室だったわけだが、おそらく今ではそれらをリフォームして、みな洋式の部屋にして暮らしている。つまり、すべての部屋が洋間になってしまったわけで、とくに一室だけを「洋間」と区別して呼ぶことがなくなって久しいのだ。そんな部屋に、たまたま蘭を飾った。そしてその芳香に包まれた途端に、思い出されたのである。「むかし洋間と呼びし部屋」には、この「香」がよく漂っていたことが……。「蘭の香」は、同時に洋間そのものの香りでもあり、他の部屋にはない独特な香りだった。連れて、当時そのままの部屋のたたずまいと、往時そのままのあれこれのことを思い出し、しばし作者は懐旧の情に浸っている。香りが、思いがけない過去へと作者を誘ってくれたのだ。さて、句の季語は「蘭」であるが、歳時記によって季節の分類は異っている。夏によく咲くことから夏季とするものがあり、秋の七草のフジバカマを蘭と言ったことから秋季とするものなど、マチマチだ。しかし、現在では冬でも普通に蘭の花が見られる。というわけで、当歳時記としては無季に分類しておくことにした。ただし、掲句の作者は、前後に置かれた他の句から類推すると、秋季として詠んでいるようだ。「俳句研究」(2002年12月号)所載。(清水哲男)


November 15112002

 スケートの濡れ刃携へ人妻よ

                           鷹羽狩行

つて「家つきカーつきババア抜き」なる流行語があった。1960年ころのことだ。若い女性の理想的な結婚の条件を言ったものだが、流行した背景には、まだまだ「家なしカーなしババアつき」という現実があったからだ。掲句は、そんな社会的背景のなかで読まれている。嫁に行ったら家庭に入るのが当たり前だった時代に、共稼ぎでの仕事場ならばまだしも、遊びの場に若い「人妻」が出入りするなどは、それだけで一種ただならぬ出来事に写ったはずだ。しかも「スケート」を終えた句の人妻は、いかにもさっそうとしている。「濡れ刃携へ」は即物的な姿の描写にとどまらず、彼女の毅然たる内面をも物語っているだろう。行動的で自由で、どこか挑戦的な女。作者は、そのいわば危険な香りに魅力を覚えて、「人妻よ」と止めるしかなかった。「よ」は詠嘆でもなければ、むろん嗟嘆などではありえない。強いて言うならば、羨望を込めた絶句に近い表現である。この句が詠まれてから、まだ半世紀も経っていない。もはや人妻がスケート場にいても当たり前だし、第一「人妻」という言葉自体も廃れてきた。いまの若い人には、どう読まれるのだろうか。『誕生』(1965)所収。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます