今年もあと三週間。まだアセらないぞ。なんて言ってるうちに、大晦日を迎えることに。




2002ソスN12ソスソス11ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 11122002

 手にみかんひとつにぎって子が転ぶ

                           多田道太郎

語は「みかん(蜜柑)」で冬。まだ幼い「子」が「みかん」を握ったまま転んじゃった。そのまんまと言えば、そのまんまの句だ。ただ、それだけのこと。あらためて句景を説明する必要もないが、しかし、観賞する必要はあるだろう。というのも、転んだ子にとっての「みかん」は単なる「みかん」ではなく、とても大切なものの象徴と、自然に読めるからだ。転んで泣いても、この子はきっと「みかん」を握って放さなかったろう。そのことは「手にみかんひとつにぎって」というくどいほどの描写から、必然的に浮き上がってくるイメージだ。こんなときには「アホやなあ」と抱き起こし、微笑するのが周囲の大人の常だけれど、作者は微笑しつつも、ちらりとこの子に羨望の念のようなものを覚えたのではあるまいか。大切なものを握っているがゆえに転ぶということなどは、世故にたけた大人の世界ではなかなか見られない。たいていが転ばぬ先に、大切なものを手放してしまう。自分もまた、そうしてきた。でも、誰にだって、この子のように後先考えずにふるまった過去はあったのだ……。むろん理屈としてではなく、とっさにそうした感情が作者の胸をよぎった。掲句が心に響くのは、転んだ子の無垢への羨望もあるが、同時にみずからの幼少期に対する羨望の念が込められているからだと思える。『多田道太郎句集』(2002・芸林書房)所収。(清水哲男)


December 10122002

 雪は来でから風きほう空凄し

                           河合曽良

語は「から風(空風)」で冬。句のように、雪や雨をともなわない、乾いた山越しの強い北風のこと。昔から、上州(群馬県)や遠州(静岡県西部)の名物として知られる。こいつにまともに吹かれると、目もなかなか開けていられず、口の中には砂が入ってジャリジャリする。それよりもなによりも、寒さも寒し。身を切られるようである。思わず空を見上げれば、誰でも曽良と同じように「凄し」と感じるだろう。ただ、この「凄し」という措辞に句の命があるのだけれど、昨今では「凄い」がいささか安売り気味なので、私たちの感受性が作者の実感にぴったり重なるかどうかは心もとない。何かにつけて、いまは「凄い」「すげえ」「すんご〜い」が連発されている。元来の「凄い」は、心に強烈な戦慄や衝撃を感じさせる様子をいうのだから、昔の人はめったなことでは「凄い」とは言わなかったはずだ。そんなに、そこらへんに「凄い」と感じることなど転がってはいなかった。その意味からすると、タレントが逆立ちして歩いたくらいで「すんご〜い」と言うのは、いかがなものか。そうした「すんご〜い」を聞いただけで、他人事ながら赤面しそうになる。言葉の意味を軽く使うことを一概に否定するつもりはないけれど、いまどきの「凄い」のあまりの軽さは、それこそ「すごすぎない?」でしょうか。(清水哲男)


December 09122002

 はつ雪の降出す此や昼時分

                           傘 下

のところ、東京地方もぐっと冷え込んできた。もしかすると、今日あたりには、白いものが舞い降りてくるかもしれない。降れば、初雪だ。そんなことを思って「初雪」の句をあちこち探していたら、柴田宵曲の『古句を観る』(岩波文庫)で掲句を見つけた。「此」は「ころ」と読む。句は面白くも何ともないけれど、しかし宵曲の解説に、ちょっと立ち止まってしまった。曰く「読んで字の如しである。何も解釈する必要はない。こんなことがどこが面白いかという人があれば、それは面白いということに捉われているのである。芭蕉の口真似をするわけではないが、『たゞ眼前なるは』とでもいうより仕方あるまい」。私は、このページを書いていることもあって、毎日、たくさんの句を読んでいる。なかに結構、掲句のような「面白くも何ともない句」がある。そういう句に出会うと、くだらないと思うよりも、何故この人はこういう面白くもないことを書くのだろうという不思議な気持ちになることのほうが多い。宵曲の言うように、たぶん私も「面白いということに捉われている」のだろう。が、逆に面白さに捉われないで書く、あるいは読むということは、どういうことなのか。「面白さに捉われない」心根は、ある種の境地ではあると思うが、その境地に達したとして、さて、何が私に起きるのであろうか。(清水哲男)




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