ネットでクリスマス音楽を聞くのも、なかなかオツなものですね。ときに掘り出し物も。




2002ソスN12ソスソス12ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 12122002

 ラグビーのボール大地に立てて蹴る

                           粟津松彩子

語は「ラグビー」で冬。あらためて言われてみると、なるほど「ラグビーのボール」は「立てて蹴る」。ゴール・キックの情景だ。句の妙は、ラグビーのフィールドを一気に「大地」に拡大したところにあるだろう。読者がそう実感できるのは、やはり「立てて蹴る」からなのだ。キックの前には競技が止まり、キッカーは息を詰めるようにして慎重にボールを立てる。この行為を、誰も助けてはくれない。孤立無援の行為だ。このときの彼の意識には、だから束の間敵も味方も何もなく、ただあるのはボールとそれを立てるべき地表だけとなる。全神経の集中が、彼にまるで「大地」のなかにひとり放り出されたような感覚を呼び起こす。見ている観客にも、それが伝わってくる。そしてねらいを定め、高々と「蹴る」。蹴った瞬間から、徐々に彼のなかには現実が戻ってくる。敵味方が動き、観客としての作者にも競技が戻ってくる。このいわば白い緊張感が、「大地に」と言ったことで読者の眼前に鮮かとなった。昔からラグビーの句はけっこう数詠まれてきたが、試合中の具体的なシーンそのものを詠んだ句はあまり見かけない。その意味でも珍しいが、作者はよほどのラグビー好きなのだろうか。蛇足ながら、作者八十九歳の作句だ。『あめつち』(2002)所収。(清水哲男)


December 11122002

 手にみかんひとつにぎって子が転ぶ

                           多田道太郎

語は「みかん(蜜柑)」で冬。まだ幼い「子」が「みかん」を握ったまま転んじゃった。そのまんまと言えば、そのまんまの句だ。ただ、それだけのこと。あらためて句景を説明する必要もないが、しかし、観賞する必要はあるだろう。というのも、転んだ子にとっての「みかん」は単なる「みかん」ではなく、とても大切なものの象徴と、自然に読めるからだ。転んで泣いても、この子はきっと「みかん」を握って放さなかったろう。そのことは「手にみかんひとつにぎって」というくどいほどの描写から、必然的に浮き上がってくるイメージだ。こんなときには「アホやなあ」と抱き起こし、微笑するのが周囲の大人の常だけれど、作者は微笑しつつも、ちらりとこの子に羨望の念のようなものを覚えたのではあるまいか。大切なものを握っているがゆえに転ぶということなどは、世故にたけた大人の世界ではなかなか見られない。たいていが転ばぬ先に、大切なものを手放してしまう。自分もまた、そうしてきた。でも、誰にだって、この子のように後先考えずにふるまった過去はあったのだ……。むろん理屈としてではなく、とっさにそうした感情が作者の胸をよぎった。掲句が心に響くのは、転んだ子の無垢への羨望もあるが、同時にみずからの幼少期に対する羨望の念が込められているからだと思える。『多田道太郎句集』(2002・芸林書房)所収。(清水哲男)


December 10122002

 雪は来でから風きほう空凄し

                           河合曽良

語は「から風(空風)」で冬。句のように、雪や雨をともなわない、乾いた山越しの強い北風のこと。昔から、上州(群馬県)や遠州(静岡県西部)の名物として知られる。こいつにまともに吹かれると、目もなかなか開けていられず、口の中には砂が入ってジャリジャリする。それよりもなによりも、寒さも寒し。身を切られるようである。思わず空を見上げれば、誰でも曽良と同じように「凄し」と感じるだろう。ただ、この「凄し」という措辞に句の命があるのだけれど、昨今では「凄い」がいささか安売り気味なので、私たちの感受性が作者の実感にぴったり重なるかどうかは心もとない。何かにつけて、いまは「凄い」「すげえ」「すんご〜い」が連発されている。元来の「凄い」は、心に強烈な戦慄や衝撃を感じさせる様子をいうのだから、昔の人はめったなことでは「凄い」とは言わなかったはずだ。そんなに、そこらへんに「凄い」と感じることなど転がってはいなかった。その意味からすると、タレントが逆立ちして歩いたくらいで「すんご〜い」と言うのは、いかがなものか。そうした「すんご〜い」を聞いただけで、他人事ながら赤面しそうになる。言葉の意味を軽く使うことを一概に否定するつもりはないけれど、いまどきの「凄い」のあまりの軽さは、それこそ「すごすぎない?」でしょうか。(清水哲男)




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