December 132002
暦果つばしやんばしやあんと鯨の尾
田中哲也
季語は「暦果つ(暦の果・古暦)」で冬。当今の日めくりカレンダー的感覚で、暦の果てる大晦日の句と読んでもよい。が、この季語には、元来もう少し時間的な幅がある。昔の暦は軸物で、巻きながら見ていった。十二月の終わりころになると、軸に最も近いところを見ることになるわけで、それ以上は先がない。すなわち「暦果つ」なのだ。したがって掲句も、そろそろ今年もお終いかという気分でも読むことができる。さて、句の「ばしやんばしやあん」が、実に効果的に響いてくる。しかも、音立てているのは巨大な「鯨の尾」だ。回顧すれば、今年もいろいろなことがあった。しかし、そうした事どもを空無に帰すかのように、聞こえてくるのはただ「ばしやんばしやあん」と、遠い海のどこかで浮きつ沈みつ、鯨が繰り返し水を叩いている音だけなのである。この想像力は、素晴らしい。藤村ではないが、「この命なにをあくせく……」の人間卑小の思いが、「ばしやんばしやあん」とともに静かにわき上がってくるではないか。一種の無常観を詠むに際して、このように音をもって対した俳句を、寡聞にして私は他に知らない。無常の世界にも、たしかな音があったのだ。「ばしやんばしやあん」と、今年も暮れてゆきます。『碍子』(2002・ふらんす堂)所収。(清水哲男)
June 032004
えごの花大学生だ放つておけ
田中哲也
季語は「えごの花」で夏。全国的に分布。ちょうどこの季節くらいに、白い可憐な花をたくさん咲かせる。よくわからないのだが、なんとなく気になってきた句だ。わからないのは、「大学生だ放つておけ」と言っている主体が不明だからである。むろんせんじ詰めれば作者の発語になるわけだけれど、句の上では「えごの花」の言と解すべきなのだろうか。花は高いところで咲いていて、いつも人の動きを見下している。折りから通りかかった若者のグループに、たとえば言い争っているとか道に迷っているらしいとか、何らかのトラブルを抱えている様子が見て取れた。心配顔で見ているうちに、彼らが大学生だとわかってきた。そこで「なあんだ、大学生なら放っておけ」と言い捨てたのだが、この言い方は現代の大学生の世間的な位置を示していて面白い。教養のある若者たちだから、傍が放っておいても自力で何とかするだろう。という信頼感の現われであると同時に、モラトリアム世代の呑気な連中だから、多少は痛い目にあっても知ったことかという軽侮の心理が同居しているからだ。戦前の「学士様ならお嫁にやろか」「末は博士か大臣か」と下世話にもてはやされた学生像とは、その是非は置くとして、大変な変わりようではある。掲句にそのような感慨は含まれていないが、現代の大学生一般の存在感の軽さをよく言い止めているのではなかろうか。「えごの花」の花期は短い。作者はそのうつろいやすさを、大学生像に投影しているのかもしれない。『碍子』(2002)所収。(清水哲男)
July 302004
帰省して蛍光燈を替へてゐる
田中哲也
季語は「帰省」で夏。夏休みで、久しぶりに父母のいる実家に戻ってきた。早速、母親に頼まれたのだろうか。暗くならないうちにと、脚立に上って「蛍光燈を替へている」のである。それだけのことなのだけれど、帰省子の心情が、ただそれだけのことなので、逆に余計によく伝わってくる。私にも体験があるからわかるのだが、とくにはじめての帰省の時などは、遠慮などいらない実家のはずなのに、なんとなく居心地の悪さを感じたりするものなのだ。むろん客ではないが、かといって従来のような家族に溶け込んでいる一員というのでもない。互いに相手がまぶしいような感じになるし、気ばかり使って応対もぎごちなくなってしまう。肉親といえどもが、しばらくでも別々の社会に生きていると、そんな関係になるようだ。だから、こういうときに例えば蛍光燈を替えるといった日常的な用事を頼まれると、ほっとする。すっと、理屈抜きに以前の家族の間柄に戻れるからである。句の「蛍光燈を替へている」が「替へにけり」などではなくて、現在進行形であることに注目したい。いままさに蛍光燈を替えながら、やっとそれまでのぎごちない関係がほぐれてきつつある気分を、なによりも作者は伝えたかったのだと思う。替え終えて脚立から下りれば、もうすっかり従来の家族の一員の顔になっている。『碍子』(2002)所収。(清水哲男)
December 222004
風邪引いて卵割る角探しをり
田中哲也
季語は「風邪」で冬。どういうわけか、毎年この時期になると風邪を引く。昨年も引いたし、一昨年も引いた。そして、また今年も。寝込むほどではないのだけれど、それでなくとも気ぜわしい折りの風邪は鬱陶しい。句の作者は思いついて、風邪引きの身になにか暖かいもの、たとえば卵酒のようなものを作ろうとしているのだろう。ふだんから台所仕事をしていればこんなことは起きないが、たまに厨房に立つと、意外なところで戸惑ってしまうものだ。卵なんぞはそこらへんの適当な「角」で割ればよさそうなものだが、それがそうでもないのである。割りようによっては失敗することもあるし、打ち付けた調度の角を傷つけてしまうかもしれない。要するに卵を割るときの力の入れ具合(コツ)がわからないから、こういうことが起きるわけだ。鼻水をすすりながら、束の間あちこちに目をうろうろさせている作者の姿は滑稽でもあるが、私のように平生から台所に無縁のものからすると、大いに同情を覚える。ぼおっとした頭で「角」を探すのと同じ行為は、誰にでもその他の生活シーンではあることだと思う。ならば台所慣れしている人が何の角で割っているかというと、ほとんどが無意識のうちに割っているので、あらためて聞かれてもわかるまい。でも、台所に立てばきちんと割れる。頭で考えてから割るのではなく、身体が自然にそうしているのだ。『碍子』(2002)所収。(清水哲男)
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