あれもしなければ、これもしなければ。二兎を追って三兎も四兎も穫りたいのが年末だ。




2002ソスN12ソスソス13ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 13122002

 暦果つばしやんばしやあんと鯨の尾

                           田中哲也

語は「暦果つ(暦の果・古暦)」で冬。当今の日めくりカレンダー的感覚で、暦の果てる大晦日の句と読んでもよい。が、この季語には、元来もう少し時間的な幅がある。昔の暦は軸物で、巻きながら見ていった。十二月の終わりころになると、軸に最も近いところを見ることになるわけで、それ以上は先がない。すなわち「暦果つ」なのだ。したがって掲句も、そろそろ今年もお終いかという気分でも読むことができる。さて、句の「ばしやんばしやあん」が、実に効果的に響いてくる。しかも、音立てているのは巨大な「鯨の尾」だ。回顧すれば、今年もいろいろなことがあった。しかし、そうした事どもを空無に帰すかのように、聞こえてくるのはただ「ばしやんばしやあん」と、遠い海のどこかで浮きつ沈みつ、鯨が繰り返し水を叩いている音だけなのである。この想像力は、素晴らしい。藤村ではないが、「この命なにをあくせく……」の人間卑小の思いが、「ばしやんばしやあん」とともに静かにわき上がってくるではないか。一種の無常観を詠むに際して、このように音をもって対した俳句を、寡聞にして私は他に知らない。無常の世界にも、たしかな音があったのだ。「ばしやんばしやあん」と、今年も暮れてゆきます。『碍子』(2002・ふらんす堂)所収。(清水哲男)


December 12122002

 ラグビーのボール大地に立てて蹴る

                           粟津松彩子

語は「ラグビー」で冬。あらためて言われてみると、なるほど「ラグビーのボール」は「立てて蹴る」。ゴール・キックの情景だ。句の妙は、ラグビーのフィールドを一気に「大地」に拡大したところにあるだろう。読者がそう実感できるのは、やはり「立てて蹴る」からなのだ。キックの前には競技が止まり、キッカーは息を詰めるようにして慎重にボールを立てる。この行為を、誰も助けてはくれない。孤立無援の行為だ。このときの彼の意識には、だから束の間敵も味方も何もなく、ただあるのはボールとそれを立てるべき地表だけとなる。全神経の集中が、彼にまるで「大地」のなかにひとり放り出されたような感覚を呼び起こす。見ている観客にも、それが伝わってくる。そしてねらいを定め、高々と「蹴る」。蹴った瞬間から、徐々に彼のなかには現実が戻ってくる。敵味方が動き、観客としての作者にも競技が戻ってくる。このいわば白い緊張感が、「大地に」と言ったことで読者の眼前に鮮かとなった。昔からラグビーの句はけっこう数詠まれてきたが、試合中の具体的なシーンそのものを詠んだ句はあまり見かけない。その意味でも珍しいが、作者はよほどのラグビー好きなのだろうか。蛇足ながら、作者八十九歳の作句だ。『あめつち』(2002)所収。(清水哲男)


December 11122002

 手にみかんひとつにぎって子が転ぶ

                           多田道太郎

語は「みかん(蜜柑)」で冬。まだ幼い「子」が「みかん」を握ったまま転んじゃった。そのまんまと言えば、そのまんまの句だ。ただ、それだけのこと。あらためて句景を説明する必要もないが、しかし、観賞する必要はあるだろう。というのも、転んだ子にとっての「みかん」は単なる「みかん」ではなく、とても大切なものの象徴と、自然に読めるからだ。転んで泣いても、この子はきっと「みかん」を握って放さなかったろう。そのことは「手にみかんひとつにぎって」というくどいほどの描写から、必然的に浮き上がってくるイメージだ。こんなときには「アホやなあ」と抱き起こし、微笑するのが周囲の大人の常だけれど、作者は微笑しつつも、ちらりとこの子に羨望の念のようなものを覚えたのではあるまいか。大切なものを握っているがゆえに転ぶということなどは、世故にたけた大人の世界ではなかなか見られない。たいていが転ばぬ先に、大切なものを手放してしまう。自分もまた、そうしてきた。でも、誰にだって、この子のように後先考えずにふるまった過去はあったのだ……。むろん理屈としてではなく、とっさにそうした感情が作者の胸をよぎった。掲句が心に響くのは、転んだ子の無垢への羨望もあるが、同時にみずからの幼少期に対する羨望の念が込められているからだと思える。『多田道太郎句集』(2002・芸林書房)所収。(清水哲男)




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