元日まであと二週間の今週は多忙。綱渡りの心持ち。風邪を引いたら全てがオジャンだ。




2002ソスN12ソスソス18ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 18122002

 声を出すラジオの前の置炬燵

                           南村健治

語は「炬燵(こたつ)」で冬。職業柄、「ラジオ」の句は気にかかる。でも、最初に読んだときには、どういう情景を詠んだ句なのかわからなかった。というのも、そのままに「声を出すラジオ」と読んでしまったからだ。ラジオが声を出すのは、あまりにも当たり前すぎて、どこが面白いのかさっぱり理解できない。はてなと、しばらく睨んでいるうちに納得。実は「声を出す」はラジオだけにかかっているのではなくて、「置炬燵」にもかけられているのだと思えたからだ。そう読むと、にわかに掲句は愉快に動き出す。私の想像では、情景は次のようになる。ラジオを聞きながら置炬燵で暖まっていた人が、トイレに行くとか何かの都合で、ちょっと席を外したのだ。と、そこにポツンと残されたのは「声を出」しているラジオと、その「前の」声を出していないない置炬燵だけだ。人間が関わらない場合のラジオも置炬燵も、お互いに単なるポータブルな箱であるに過ぎない。そのことに気づいた(?!)置炬燵が、対抗してちょっと「声を出」してみたという、現実にはあり得べからざる情景……。と、ここまで書いて、もう一度句に戻ると、いや、いくら何でも、そんな突飛なことを詠むはずはないとも思えてくる。しかし、たとえ作者の意図から外れていたとしても、私は私の勝手な想像が大いに気に入っている。俳句の読みには、常にこういうことがつきまとう。そこに、無論そこだけではないけれど、俳句を読む楽しさがある。なあんて、単なる言いわけかもね。『大頭』(2002)所収。(清水哲男)


December 17122002

 天網恢恢疎にして枯けやき

                           三宅やよい

の項「枯木」に分類しておく。私の住む武蔵野一帯は、昔から「けやき」の樹の多いところで、俳句や短歌にもよく詠まれてきた。もうすっかり葉は落ちてしまい、枝だけが高いところで四方八方に張っている。ことに早朝の澄んだ大気の中で、明けてくる空を背景に黒々と網目状に広がって見えるシルエットは、息をのむような美しさだ。句の言うように、なるほどあれは「天網(てんもう)」である。「天網恢恢(てんもうかいかい)疎にして」の後は、御存知のように「漏らさず」とつづく。老子の「天網恢恢、疎而不失」より来ている。天の張った網目はあらいようだけれど、悪人を決して見逃すことはないという教訓だ。中学生のころに教室で習ってから、ついぞ思い出すこともなかつたが、掲句のおかげでよみがえってきた。といって、句の力点は教訓の中身にあるのではないだろう。あくまでも抽象的な「天網」の形状を、偶然に「枯けやき」のシルエットに発見した(ような気持ちになった)嬉しさを詠んでいる。「天網恢恢……」といかめしげな言葉の最後で、ポンと「枯けやき」に振った詠みぶりが、いかにもこの人らしい。『玩具帳』(2000)所収。(清水哲男)


December 16122002

 冬服の紺まぎれなし彼も教師

                           星野麥丘人

通りに読める。一つは「教師」である「彼」その人を知っている場合だ。昨今でも、いったいに教師の装いは地味である。が、そんななかで、彼はいささか洒落たデザインの冬のスーツを着て職場に出てきた。作者は一瞬「おっ」と目を引かれたけれど、しかしデザインはともかく、服地の色が押さえた「紺」であったことで、やはり「まぎれなし」に「彼も」教師なんだなあと微笑している。もう一つの読みは、電車などにたまたま乗りあわせた見知らぬ他人の場合だ。同じような理由から、その人は十中八九教師に違いないと思ったというのである。こちらの解釈のほうがほろ苦くて、私は好きだ。他人の職業を見破ったからといって、何がどうなるというわけではないのだけれど、すうっとその人に親近感がわいてくる。と同時に、教師なんてみんなヤボなものだなあと、ちょっと自嘲の念も生まれている。この味は、それこそ「まぎれなしに」ほろ苦い。教師でなくても、一般的に同業者同士は、お互いにすぐにわかりあえる雰囲気を持っている。このときに、見破る大きなキーとなるのは、やはり服装だろう。私が日ごろよく接している人の職業は、メディア関係が多い。放送局、出版社、新聞社の人々だが、一見それぞれの服装が同じように見えるスーツ姿でも、微妙に異っているところが面白い。『新歳時記・冬』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)




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