ラジオマンに休日なし。来週は大晦日も三が日も仕事です。愚痴じゃなけれど……。




2002ソスN12ソスソス23ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 23122002

 羊飼ぞろぞろしつゝ聖夜劇

                           森田 峠

年期が戦争中だったので、キリストやサンタクロースのことを知ったのは、小学校六年生くらいになってからだった。新しく着任された校長先生が熱心なクリスチャンで、その方からはじめて教えられた。草深い田舎の小学校。我ら洟垂れ小僧に、先生はある日突然、クリスマス・パーティの開催を提案された。上級生だけの会だったと思う。見たことも聞いたこともないクリスマス・ツリーなるものを何とか作りあげ、ちょっとした寸劇をやった記憶は鮮明だ。句のように、主役級からこぼれ落ちた残りの連中は「ぞろぞろしつゝ」羊飼になった。おお、民主ニッポンよ。筋書きにあったのはそこまでだが、寸劇が終わるとすぐに、洟垂れ小僧、いや「羊飼」一同があっと驚くパフォーマンスが用意されていたのだった。サンタクロースの登場である。いまどきの子供とは違って、なにしろサンタクロースのイメージすら皆無だったから、驚いたのナンのって。人間というよりも、ケダモノが教室に乱入してきたのかと、度肝を抜かれて身がこわばった。むろん、校長先生の扮装だったのだが、あんなにびっくりしたことは、現在に至るもそんなにはない。そしてそれから、呆然とする羊飼たち一人ひとりに配られたのは、忘れもしない、マーブル状のチョコレートで、これまた生まれて初めて目にしたのである。「食べてごらん」。先生にうながされて、おずおずと口にしたチョコレートの美味しかったこと。でも、二粒か三粒食べただけで、我ら羊飼はみな、それ以上は決して食べようとはしなかった。誰もが、こんなに美味しいものを独り占めにする気にはなれなかったからだ。家に帰って、父母や弟妹といっしょに食べたいと思ったからだ。チョコを大事にチリ紙に包み、しっかりとポケットに入れて夕闇迫る校庭に出てみると、白いものが舞い降りていた。おお、ホワイト・クリスマス。これから、ほとんどが一里の道を歩いて帰るのである。掲句を読んで思い出した、遠い日のちっちゃなお話です。『新日本大歳時記・冬』(1999)所載。(清水哲男)


December 22122002

 クリスマス馬小屋ありて馬が住む

                           西東三鬼

戦後、三年目(1948)の作。このことは、解釈にあたって見落とせない。クリスマスから「馬小屋」を連想するのは自然の流れであり、馬小屋に「馬が住む」のも当たり前である。が、そういうことが必ずしも当たり前ではなかった時代があった。茶木繁が昭和十五年(1940)に書いた、次の詩を読んでいただきたい。タイトルは「馬」。「馬はだまっていくさに行った 馬はだまって大砲ひいた/馬はたおれた 御国のために/それでも起とうと 足うごかした 兵隊さんがすぐ駆け寄った/それでも馬はもう動かない/馬は夢みた 田舎のことを/田んぼたがやす 夢みて死んだ」。もとより「兵隊さん」もそうだったが、万歳の声に引きずられるように戦地に駆り出され、ついに帰ってこなかった農耕馬たちは数知れない。したがって戦後しばらくの間、馬小屋はあっても、馬がいない農家は多かったのだ。だから、作者は馬小屋に馬がいることにほっとしているというよりも、ほとんど感動している。馬小屋でキリストが誕生したお話などよりも、馬小屋に当たり前に馬がいることのほうが、どれほど心に平安をもたらすか。敬虔なクリスチャンを除いては、まだクリスマスどころではなかった時代の、これは記念碑的な一句と言えるだろう。『西東三鬼全句集』(1971)所収。(清水哲男)


December 21122002

 なほ赤き落葉のあれば捨てにけり

                           渡部州麻子

所に見事な銀杏の樹があって、たまに落葉を拾ってくる。本の栞にするためである。で、拾うときには、なるべく枯れきった葉を選ぶ。まだ青みが残っているものには、水分があるので、いきなり本に挟むと、ページにしみがついてしまうからだ。私の場合は、用途が用途だけに、一枚か二枚しか拾わない。ひるがえって、掲句の作者の用途はわからないが、かなりたくさん拾ってきたようである。帰宅して机の上に広げてみると、そのうちの何枚かに枯れきっていない「赤き」葉が混じっていた。きれいだというよりも、作者は、まだ葉が半分生きているという生臭さを感じたのだろう。私の経験からしても、表では十分に枯れ果てたと見えた葉ですら、室内に置くと妙に生臭く感じられるものだ。そんな生臭さを嫌って、作者は「赤き」葉だけではなく、その他も含めて全部捨ててしまったというのである。全部とはどこにも書かれていないけれど、「捨てにけり」の断言には「思い切って」の含意があり、そのように想像がつく。と同時に、捨てるときにちらっと兆したであろう心の痛みにも触れた気持ちになった。「赤」で思い出したが、細見綾子に「くれなゐの色を見てゐる寒さかな」があり、評して山本健吉が述べている。「こんな俳句にもならないようなことを、さりげなく言ってのけるところに、この作者の大胆さと感受性のみずみずしさがある」。句境はむろん違うのだけれど、掲句の作者にも一脈通じるところのある至言と言うべきか。「俳句研究」(2003年1月号)所載。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます