この坊やとも、今夜でお別れです。期待に胸ふくらませて、眠りにつくことでしょう。




2002ソスN12ソスソス24ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 24122002

 屋台とは聖夜に背向け酔ふところ

                           佐野まもる

っはっは。狷介というのか、世を拗ねているというのか。私にも、こんなふうな若き日がありました。クリスチャンでもないくせに、浮かれている人々が憎らしくもあり、嫉ましくもあり……。屋台のおやじさん相手に、ひとしきり不満をぶちまけて、安酒をあおったものです。文字通りに「聖夜に背向け」酔っていました。でも、当時の本音を叩けば、誰もいっしょに過ごす人がいないので、ただ心寂しかっただけのようでもあります。といって、今でもべつに進んで祝う気持ちはありませんが、楽しげな人々を見て、腹立たしく思うこともなくなりました。クリスマスであれ、何であれ、人は楽しめるときに楽しんでおかないと……、という心境に変化しています。これが、きっとトシのせいというものなのでしょう。その点、我が若き日に比べると、いまの若い人たちはとても楽しみ上手に見え、羨ましいかぎりです。さて、どうでしょうかね。そうはいっても、今夜も広い日本のどこかには、句のように屋台に坐って肩そびやかしている若者が、きっといるのでしょうね。それもまた青春、よしとしましょうや。では、メリー・クリスマス。大いにお楽しみください。『新歳時記・冬』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


December 23122002

 羊飼ぞろぞろしつゝ聖夜劇

                           森田 峠

年期が戦争中だったので、キリストやサンタクロースのことを知ったのは、小学校六年生くらいになってからだった。新しく着任された校長先生が熱心なクリスチャンで、その方からはじめて教えられた。草深い田舎の小学校。我ら洟垂れ小僧に、先生はある日突然、クリスマス・パーティの開催を提案された。上級生だけの会だったと思う。見たことも聞いたこともないクリスマス・ツリーなるものを何とか作りあげ、ちょっとした寸劇をやった記憶は鮮明だ。句のように、主役級からこぼれ落ちた残りの連中は「ぞろぞろしつゝ」羊飼になった。おお、民主ニッポンよ。筋書きにあったのはそこまでだが、寸劇が終わるとすぐに、洟垂れ小僧、いや「羊飼」一同があっと驚くパフォーマンスが用意されていたのだった。サンタクロースの登場である。いまどきの子供とは違って、なにしろサンタクロースのイメージすら皆無だったから、驚いたのナンのって。人間というよりも、ケダモノが教室に乱入してきたのかと、度肝を抜かれて身がこわばった。むろん、校長先生の扮装だったのだが、あんなにびっくりしたことは、現在に至るもそんなにはない。そしてそれから、呆然とする羊飼たち一人ひとりに配られたのは、忘れもしない、マーブル状のチョコレートで、これまた生まれて初めて目にしたのである。「食べてごらん」。先生にうながされて、おずおずと口にしたチョコレートの美味しかったこと。でも、二粒か三粒食べただけで、我ら羊飼はみな、それ以上は決して食べようとはしなかった。誰もが、こんなに美味しいものを独り占めにする気にはなれなかったからだ。家に帰って、父母や弟妹といっしょに食べたいと思ったからだ。チョコを大事にチリ紙に包み、しっかりとポケットに入れて夕闇迫る校庭に出てみると、白いものが舞い降りていた。おお、ホワイト・クリスマス。これから、ほとんどが一里の道を歩いて帰るのである。掲句を読んで思い出した、遠い日のちっちゃなお話です。『新日本大歳時記・冬』(1999)所載。(清水哲男)


December 22122002

 クリスマス馬小屋ありて馬が住む

                           西東三鬼

戦後、三年目(1948)の作。このことは、解釈にあたって見落とせない。クリスマスから「馬小屋」を連想するのは自然の流れであり、馬小屋に「馬が住む」のも当たり前である。が、そういうことが必ずしも当たり前ではなかった時代があった。茶木繁が昭和十五年(1940)に書いた、次の詩を読んでいただきたい。タイトルは「馬」。「馬はだまっていくさに行った 馬はだまって大砲ひいた/馬はたおれた 御国のために/それでも起とうと 足うごかした 兵隊さんがすぐ駆け寄った/それでも馬はもう動かない/馬は夢みた 田舎のことを/田んぼたがやす 夢みて死んだ」。もとより「兵隊さん」もそうだったが、万歳の声に引きずられるように戦地に駆り出され、ついに帰ってこなかった農耕馬たちは数知れない。したがって戦後しばらくの間、馬小屋はあっても、馬がいない農家は多かったのだ。だから、作者は馬小屋に馬がいることにほっとしているというよりも、ほとんど感動している。馬小屋でキリストが誕生したお話などよりも、馬小屋に当たり前に馬がいることのほうが、どれほど心に平安をもたらすか。敬虔なクリスチャンを除いては、まだクリスマスどころではなかった時代の、これは記念碑的な一句と言えるだろう。『西東三鬼全句集』(1971)所収。(清水哲男)




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