三が日も仕事。除夜の鐘を待たずに寝る暮しは二十年以上。男はつらいよとも思わない。




2002ソスN12ソスソス31ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 31122002

 おろかなる犬吠えてをり除夜の鐘

                           山口青邨

とに著名な句だ。数々の歳時記に収録されてきた。時ならぬ深夜の鐘の音に、びっくりした犬が吠えている。いつまでも、吠えたてている。その犬を指して、作者は「おろかなる」と言ったわけだが、しかし、この「おろかなる犬」は単純に「馬鹿な犬め」ということではないだろう。ただ、犬は人間世界の事情を解していないだけのことなのであって、彼にとっては吠えるほうが、むしろ自然の行為なのだ。そんなことは百も承知で、あえて作者が「おろか」と言っているのは、むしろ犬の「おろか」を羨む気持ちがあるからである。「おろかなる犬」なのだから、人間のように百八つの煩悩などはありえない。ありえないから、「除夜の鐘」などはどうでもいいのだし、はじめから理解の外で生きていられる。だから、素朴に驚いて吠えているだけだ。ひるがえって、人間はなんと面倒な生き方をしていることか。犬のごとくに「おろか」ではないにしても、犬よりももっと「おろか」に生きているという認識が、除夜の鐘に吠える犬に触発されて出てきたというところ……。静かに句を三読すれば、句の奥のほうから、除夜の鐘の音とともに犬の吠える声が聞こえてくる。このときにほとんどの読者は、句の「おろかなる犬」にこそ好感を抱くだろう。(清水哲男)


December 30122002

 豆腐屋のおから濛々年の暮

                           須原和男

日あたりが、正月用意のための買い物のピークだろうか。といっても、最近は正月二日から大半の店が開くので、さして買い込んでおく必要はない。そこへいくと、昔は三が日はどこも店を閉めたから、暮れの買い物は大変だった。荷物持ちのために亭主はむろん、子供もつきあわされ、普段は静かな商店街も大賑わい。そんな街でのヒトコマだ。当時の歳末の豆腐屋の様子は、たしかにこんなだったなあ。「おから」の湯気が「濛々(もうもう)」と店先にまで立ちこめ、その活気にうながされて、つい多めに買ってしまったりしたものだ。また、並びの魚屋や八百屋では威勢のいい売り声が飛び交い、街角には縁起物の市も立ち、焚火の煙がこれまた威勢よく上がっていた。パック物など無かったから、豆腐は一丁から買い、油揚げは一枚から買い、葱なども一本から買ったのだから、買い物メモは手放せなかった。メモを片手にあっちへ行ったりこっちへ来たりしているうちに、やがて日暮れ時となり、ああ今年も暮れてゆくのかと、故知らずセンチメンタルな気分になったことも懐しい。何でもかでも「昔はよかった」と言うつもりはないが、商店街での歳末の賑わいぶりだけは、昔のほうが格段によかった。賑やかさのなかに、ほのかな哀愁が漂っていた。『式根』(2002)所収。(清水哲男)


December 29122002

 着ぶくれて客観といふよりどころ

                           正木浩一

語は「着ぶくれ」で冬。俳論に「客観」は頻発するが、この言葉をそのまま俳句に詠み込んだのは、この人くらいのものだろう。でも、実によく効いている。寒いので「着ぶくれ」て、しかし、いくらなんでも着込みすぎたのではないか。不格好に過ぎやしないか。そんな思いで、作者は外出したのだ。そんな思いがあるから、普段は気にもとめない通りすがりの人々の服装に、つい目がいってしまう。ちらちらと眺めているうちに、けっこう着ぶくれている人が多いことに気がついた。なかには、自分などよりもよほど大袈裟な感じで着込んでいる人までいる。なあんだ。うじうじと着ぶくれを気にしていたさきほどの心細さが薄れてきて、ほっとしている。すなわち、他者と我とを見比べる「客観」が「よりどころ」になっての安堵なのである。この句で、思い出した。詩人の田村隆一が酔って転んでしばらく杖をついていたときに、聞いたことがある。「君ねえ、なんとまあ、世の中には杖をついてる奴がうじゃうじゃいることか」。つまり、杖をついているのは俺だけじゃなかったんだと、そこで詩人はほっとしていたわけで、これまた掲句の「客観」に通じて得られた安堵感だろう。人は、なかなか厳密な意味での客観性を持つことはできない。人は自分に似たような人しか見えないものだし、理解できない。言外に、そういうことを言っている句だと思う。「効いている」と感じた所以である。『正木浩一句集』(1993)所収。(清水哲男)




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