2003年。本年も元気に増殖しつづける所存。どうかよろしく。画像はM's Galleryより。




2003ソスN1ソスソス1ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 0112003

 世に在らぬ如く一人の賀状なし

                           皆吉爽雨

ぶん、作者のほうからは、毎年「賀状」を出しているのだ。にもかかわらず、相手からは、今年も来なかった。すなわち、相手は「世に在らぬ如く」に思えるというわけだが、実際にはそんなことはない。ちゃんと「世に在る」ことは、わかっている。しかも、元気なことも知っている。賀状を書かないのが、彼の流儀なのかどうか。とにかく、昔から賀状を寄越したことがない。実は、私にも、そういう相手がいる。同性だ。こちらは気になっているのだから、はがき一枚くらい寄越したっていいじゃないかと、単純に思う。だが、彼からは「うん」でもなければ「すう」でもないのだ。となると年末に、もうこちらから出すのは止めにしようかと、一瞬思ったりもするが、気を取り直して、とりあえずはと、出してしまう。それだけ、当方には親近感がある人なのだ。でも、来ない。そうなると、年々ますます気にかかるのだけれど、どうしようもない。ま、今日も来ないでしょうね。そんな具合に、年賀状には人それぞれに、けっこうドラマチックな要素がある。青春期の異性への賀状などは、その典型だろう。昨年末は調子が悪く、私は書かないままに、多く残してしまった。こんなことは、あまりないことだった。いまだ「世に在る」私としては、今日は仕事から一目散に戻ってきて、年賀状書きに邁進することになるだろう。『新歳時記・新年』(1990・河出文庫)所載。(清水哲男)


December 31122002

 おろかなる犬吠えてをり除夜の鐘

                           山口青邨

とに著名な句だ。数々の歳時記に収録されてきた。時ならぬ深夜の鐘の音に、びっくりした犬が吠えている。いつまでも、吠えたてている。その犬を指して、作者は「おろかなる」と言ったわけだが、しかし、この「おろかなる犬」は単純に「馬鹿な犬め」ということではないだろう。ただ、犬は人間世界の事情を解していないだけのことなのであって、彼にとっては吠えるほうが、むしろ自然の行為なのだ。そんなことは百も承知で、あえて作者が「おろか」と言っているのは、むしろ犬の「おろか」を羨む気持ちがあるからである。「おろかなる犬」なのだから、人間のように百八つの煩悩などはありえない。ありえないから、「除夜の鐘」などはどうでもいいのだし、はじめから理解の外で生きていられる。だから、素朴に驚いて吠えているだけだ。ひるがえって、人間はなんと面倒な生き方をしていることか。犬のごとくに「おろか」ではないにしても、犬よりももっと「おろか」に生きているという認識が、除夜の鐘に吠える犬に触発されて出てきたというところ……。静かに句を三読すれば、句の奥のほうから、除夜の鐘の音とともに犬の吠える声が聞こえてくる。このときにほとんどの読者は、句の「おろかなる犬」にこそ好感を抱くだろう。(清水哲男)


December 30122002

 豆腐屋のおから濛々年の暮

                           須原和男

日あたりが、正月用意のための買い物のピークだろうか。といっても、最近は正月二日から大半の店が開くので、さして買い込んでおく必要はない。そこへいくと、昔は三が日はどこも店を閉めたから、暮れの買い物は大変だった。荷物持ちのために亭主はむろん、子供もつきあわされ、普段は静かな商店街も大賑わい。そんな街でのヒトコマだ。当時の歳末の豆腐屋の様子は、たしかにこんなだったなあ。「おから」の湯気が「濛々(もうもう)」と店先にまで立ちこめ、その活気にうながされて、つい多めに買ってしまったりしたものだ。また、並びの魚屋や八百屋では威勢のいい売り声が飛び交い、街角には縁起物の市も立ち、焚火の煙がこれまた威勢よく上がっていた。パック物など無かったから、豆腐は一丁から買い、油揚げは一枚から買い、葱なども一本から買ったのだから、買い物メモは手放せなかった。メモを片手にあっちへ行ったりこっちへ来たりしているうちに、やがて日暮れ時となり、ああ今年も暮れてゆくのかと、故知らずセンチメンタルな気分になったことも懐しい。何でもかでも「昔はよかった」と言うつもりはないが、商店街での歳末の賑わいぶりだけは、昔のほうが格段によかった。賑やかさのなかに、ほのかな哀愁が漂っていた。『式根』(2002)所収。(清水哲男)




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