久しぶりの方もおられるでしょう。どんなお正月でしたか。本年もよろしくお願いします。




2003ソスN1ソスソス6ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 0612003

 羽子板に残る遊侠世紀晴

                           的野 雄

助六
きを助け、強気をくじく。おとこだて。任侠。「遊侠(ゆうきょう)」という言葉も、とんと聞かれなくなつた。死語である。句の言うように、わずかにその姿を現代にとどめるのは、芝居(歌舞伎や時代劇)であり、昔ながらの「羽子板」の絵だ。遊侠の人がヒーローたりえたのは、単純に言うと、社会の仕組みがよく見え、したがって理不尽な行いをする人の姿もよく見えていた時代ならではのことで、現今のような不透明な社会システムでは、道化にすらなれるかどうか。人々が土地や家、さらには家業に一生縛りつけられる運命(さだめ)のなかで、それらの絆を断ち切って生きる姿への庶民の憧憬と共感も、必要条件だった。遊侠は、庶民の心の片隅にいつもあった自由への願望を拡大して体現した世界と言えるだろう。といって、実際の遊侠の徒が本質的に庶民の味方であり得たわけもなく、そこはそれ庶民のしたたかな知恵で、都合のよろしき部分のみを抽出拡大し、娯楽として楽しんだ側面が強い。掲句の「世紀晴」は造語で、21世紀初頭の晴天のこと。大時代めかした「世紀晴」という表現であるがゆえに、古風な羽子板とよくマッチし、失われた遊侠に寄せる作者の感傷がしみじみと漂ってくる。写真は、歌舞伎十八番の一『助六由縁江戸桜』に取材した助六。曾我五郎時致は宝刀友切丸を探しに「助六」という侠客になり、吉原に入り込んで、花魁「揚巻」の情夫となった。そこに揚巻のもとに通っていた意休という客がいて、彼こそが友切丸を盗んだ伊賀平内挫左衛門と判明。そこで意休を殺害し、友切丸を持って吉原を抜け出す……。『斑猫』(2002)所収。(清水哲男)


January 0512003

 門松に結晶体の雪刺さる

                           林 翔

月三が日の東京は、ことのほか寒かった。元日には、気がつかない人もいたくらいにわずかではあったが、四十四年ぶりの雪。二日の未明にも降り、三日の昼間にはうっすらと積もるほどに降った。過去百年以上の気象統計からしても、だいたい東京の三が日は「晴れて風なし」の年がほとんどなので、余計に寒さが身にしみた。とくに三日の晴天率は八割を越えていて、文化の日をはるかにしのぐ晴れの特異日なのである。「この天気ではねえ……」と、商店街のおやじさんも嘆いていた。掲句の「雪」の情景は、今年の三日のそれにぴったりだと感じた。昼頃から霙(みぞれ)が降りはじめ、やがてちゃんとした雪に変わったのだが、その変わり目ころの雪の様子は、まさに「結晶体」が「刺さる」ように落ちてくるという感じだった。雪が水の結晶体だという理科の教室での理屈を越えて、どうしても「結晶体の雪」としか体感的に表現しようがない「雪」というものがある。と、句を読んで大いに納得。それが「門松」のとんがった竹や松の葉に「刺さる」のだから、寒さも寒し、読むだけでぶるぶるっときてしまう。巧みな表現だと感服しながら、一方で、雪国のみなさんには、案外こういう句はわからないかもしれないとも思った。めったに降雪のない地方ならではの「雪」であり「結晶体」であり、寒さなのだから。「俳句」(2003年1月号)所載。(清水哲男)


January 0412003

 兄弟の手のうち十六むさしかな

                           木口六兵衛

十六むさし
語は「十六(じゅうろく)むさし」で新年。といっても、もうこの正月遊びを知る人は少ないだろう。実は、私も知りませんでした(笑)。でも、たいていの現代歳時記には載っている関係上、以前から気になっていたので、調べてみたというわけです。大正期くらいまでは盛んに行われていたようで、いわゆるボードゲームの一つ。まず、四角形を縦横斜めに仕切ったところに接して、三角形の牛小屋を描く。敵味方に分かれ、中央に親を置き、周囲に十六の子を置く。親は二つの子の間に入るとこれを倒すことができ、子は間に入られないようにして、親を外側三角形の牛小屋に追いつめる。画像(「子供遊び画帖」より部分・明治21年)をご覧になれば、遊び方はなんとなくおわかりいただけるかと思います。掲句を採り上げたのは、しかし、この遊びが忘れられているからではない。「兄弟の手のうち」に、俳句を感じたからだ。実際、兄弟同士というのは、どこかで何となく「手のうち」が似ているものだ。私の末弟は中学生のころから街の将棋道場みたいな所に出入りしており、さすがに強かった。けれど、歯が立たなくなってからも、「手のうち」が似ているなとは、よく感じた。それも、攻勢に出るときよりは引き下るときのタイミングが、同一人物同士で指しているような感覚で伝わってくるのであった。「血は争えない」というが、作者もまた、他愛ない正月遊びに、遊びそのものの中身よりも、遊び以前の「血のつながり」の不思議を感じているのだ。いい句です。作者の名前から察するに、兄弟が多かったんだろう。『新歳時記・新年』(1990・河出文庫)所載。(清水哲男)




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