三鷹消防団の出初め式が近所の中学の校庭で。寒くなければ行ってみようというずぼら。




2003ソスN1ソスソス12ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 1212003

 うづくまる薬の下の寒さ哉

                           内藤丈草

書に「はせを翁の病床に侍りて」とある。芭蕉臨終直前の枕頭で詠んだもので、去来によれば、芭蕉が今生の最後に「丈草出来たり」と賞賛した句だという。だが、正直に言って、私にはどこが「出来たり」なのかが、よくわからない。凡句というのでもないけれど、去来が「かゝる時は、かゝる情こそ動かめ。興を催し、景をさぐるいとまあらじとは、此時こそおもひ知りはべる」と書いていることからすると、異常時にあっての冷静さが評価されたのだろうか。こういう緊急のときには、日ごろの蓄積が自然に出てくるというわけだ。ところで、芥川龍之介の『枯野抄』は、この句に触発されて書かれたことになっている。読み返してみたら、句への直接の言及はないが、彼もまた「出来たり」とは思っていなかったようだ。それは、師匠の唇をうるおした後に、不思議に安らかな気持ちになった丈草の心の内を描いた部分に暗示されている。「丈艸のこの安らかな心もちは、久しく芭蕉の人格的圧力の桎梏に、空しく屈してゐた彼の自由な精神が、その本来の力を以て、漸く手足を伸ばさうとする、解放の喜びだつたのである。彼はこの恍惚たる悲しい喜びの中に、菩提樹の念珠をつまぐりながら、周囲にすすりなく門弟たちも、眼底を払つて去つた如く、唇頭にかすかな笑(えみ)を浮べて、恭々しく、臨終の芭蕉に礼拝した。――」。すなわち、掲句はいまだ「芭蕉の人格的圧力の桎梏」下にあったときのものだと、芥川は言っている。むろん一つの解釈でしかないけれど、去来のように手放しで誉める気になっていないところが、いかにも芥川らしくて気に入った。ちなみに去来は、しょせんは「薮の中」だとしても、小心者として登場している。(清水哲男)


January 1112003

 大崩れして面目のとんどかな

                           土橋石楠花

とんど
語は「とんど」で新年。私の住む東京多摩地域では「どんど」。歳時記の項目では「左義長(さぎちょう)」に分類する。松飾りや注連飾りを燃やす伝統行事で、火勢の盛んな様子を喜び、「とんど」ないしは「どんど」とはやし立てることからの命名らしい。最近ではダイオキシン問題との絡みで、行わなくなった神社などの話もよく耳にする。世も末である。ネットで探したのだが、写真の「とんど」は、富山県小矢部市若林地区のもの。これは、素晴らしい。有名神社の左義長が盛大なのは当たり前だが、この素朴にして断固たる火の猛り具合こそは、昔ながらの庶民の心意気を伝えている。句にそくして言えば、この天に高い火柱がどおっと崩れてくる様子は、まさに「とんど」の「面目(めんもく)」躍如たるものがあるだろう。崩れて面目を保つ。アイロニーではなく、それが「とんど」の真骨頂なのだと、作者は告げている。それにしても、この「大崩れ」までの準備は大変だ。写真の載っている「佐野家のホームページ」の佐野行浩さんが、次のように書いている。「私達の村の左義長は、毎年正月の十四日に行われます。青竹の束は数本ではなく数十本で、高さは約8m近くの物を制作します。そのため本番での火の高さは10mを越え、火災の危険もあるため風下では消防隊の消防車を待機させて行われます。そのため、準備にも多くの労力を必要とし、毎年14日の前の日曜日に児童クラブのお父さん達を中心に、20人近くの大人が竹の伐採から組み立てまでの全作業を1日をかけて行います」。『俳句研究年鑑』(2003)所載。(清水哲男)


January 1012003

 小倉百人かたまつてゆく寒さ哉

                           高山れおな

句の下敷きには、江戸後期の俳人・井上士朗の「足軽のかたまつて行く寒さかな」がある。しんしんと冷え込んでいる町なかを、最下級武士の「足軽(あしがる)」たちがおのずと身を寄せ合うようにして、足早に通りすぎていく。それぞれ、足袋もはいていないのだろう。見ているだけで、厳しい寒さがひとしお身にしみる光景だ。対して、作者は足軽を「小倉百人」にメンバー・チェンジしてみた。『小倉百人一首』に登場する錚々たる作者の面々だ。男七十九人、女二十一人。僧侶もいるが、おおかたはやんごとなき王朝貴族だから、冬の身支度も完璧だ。一堂に会すれば、さぞや壮観だったと思われるが、作者は苦もなく百人を冬の町に放り出している。そこでさて、彼らはどんな行動に出るのだろうか。と見ていると、やはり寒さには勝てず、「かたまつて」歩きはじめたというのである。それでなくとも、日ごろは「オレが」「ワタシが」と自己主張が強くプライドの高い面々だけに、仕方なく身を寄せ合って歩く様子は可笑しみを誘う。寒気のなかでは、足軽も貴族もないのである。ところで、私の愛誦する歌の作者は、集団のどのあたりにいるのだろうか。そんなことも思われて、すっかり楽しくなってしまった。『ウルトラ』(1998)所収。(清水哲男)




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