東京は雪のち雨という天気予報。今年は雪がよく降ります。間もなく立春(2月4日)。




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January 2712003

 冬薔薇に開かぬ力ありしなり

                           青柳志解樹

までこそ「冬薔薇(ふゆばら・ふゆそうび)」も一般的になったが、栽培の歴史を読むと、冬に薔薇を咲かせるのは大変だったらしい。気が遠くなるほどの品種改良が重ねられ、四季咲きが定着したのは戦後になってからだ。句の冬薔薇は栽培によるものか天然のものかはわからないが、いずれにしても、ついに咲かなかった薔薇である。それを作者は残念と言わずに、咲かなかったのは「薔薇に開かぬ力」があったからだと、肯定している。いわば薔薇の身になり代わって、咲かない理由を述べているのだ。花は咲くもの。なんとなく私たちはそう思っているが、そんな常識は非常識だと、作者は言おうとしているのだと思う。開く力があるのであれば、植物には本源的に「開かぬ力」というものもあるのだ。こんな寒空に、無理やりに咲かされてたまるものか。擬人化すれば、そんな意志が薔薇にはあり、かつては「ありしなり」と、昔は咲かぬのも常識のうちだった。それが、どうだろう。最近の冬薔薇はみな、ぽわぽわと能天気に咲いてしまう。しまりというものがない。あの凛とした「開かぬ力」は、どこへいったのか。だんだん句が、薔薇のことではなく、我ら人間のことを詠んだふうに見えてくるから面白い。余談になるが、中世ヨーロッパでは、枯れた薔薇は壺に入れて厳重に保管されたという。その壺を「薔薇の壺」と称したが、転化して「秘密の奥義」を意味するようになったというから、如何に薔薇が珍重されていたかがうかがわれる。L・ギヨーとP・ジバシエの書いた『花の歴史』(串田孫一訳・文庫クセジュ)のなかに、十五世紀のロンドの一節が紹介されている。「あなたの唇の閉じられた扉を/賢明に守ることを考えなさい。/バラの壺をみつける言葉を/外へ漏らさないように」。「開かぬ力」が、ここでも称揚されている。『松は松』(1992)所収。(清水哲男)


January 2612003

 外はみぞれ、何を笑ふやレニン像

                           太宰 治

レニン
宰初期の代表作『葉』(1934)に挿入されている。「レニン(レーニン)」は、言わずと知れたロシア革命の主導者だ。戸外では冷たい「みぞれ」が降りしきり、室内には微笑をたたえたレニンの像がある。写真だろうか。よく知られていることだが、大宰はアジト提供などで非合法活動にかかわっていたことがあり、『葉』発表の二年前に、兄の勧めで青森警察署に自首、左翼との関係を絶っている。そうした事情を頭に置いて読むと、外の霙(みぞれ)同様に、レニンの笑みも大宰にはやりきれない寒々しさとして映じたにちがいない。俺は無産階級を裏切った男だと、自責の念が滲み出ている。推測でしかないけれど、このレニンは少しも笑ってなどいなかったと思う。生真面目な顔つきで、大宰を見つめている。その表情の奥に、大宰は笑いを感じた。薄ら笑いだ。憐愍とも指弾ともとれるレニンの謎めいた薄ら笑いに、「何を笑ふや」とおののいている。「何を笑ふや」の答えは、実はおのれ自身がいちばんよく知っているのだ。ご存知のように、『葉』はさまざまな断章(フラグメント)からなっており、格別の筋立てはない。連句の様式から着想したのかもしれないという説があって、そういえば掲句の前々段の文章には、地主の息子の青井が階級的な悩みから死にたいともらしたのに応え、大宰はこう言っている。「それは成る程、君も僕もぜんぜん生産にあずかっていない人間だ。それだからとて、決してマイナスの生活はしていないと思うのだ。君はいったい、無産階級の解放を望んでいるのか。無産階級の大勝利を信じているのか。程度の差はあるけれども、僕たちはブルジョアジイに寄生している。それは確かだ。だがそれはブルジョアジイを支持しているのとはぜんぜん意味が違うのだ」。掲句がこのあたりを受けているとすれば、余計に切ない。なんだかだとおのれの暮しぶりを正当化してみても、客観的には「ブルジョアジイに寄生している」にすぎなく、レニンの前では物も言えない自分。それを、このように書きつけておかなければ、どうしても気がすまなかった純粋な懊悩。なお『葉』は、ここ「青空文庫」で全文を読むことができます。図版は、ロシア革命60年(1977)記念に発行された切手。手前はブレジネフだが、珍しく(!!)レニンの笑顔が見られるので。(清水哲男)


January 2512003

 ひとかどの女の如し山眠る

                           守屋明俊

語は「山眠る」で冬。こういう句を読むと、俳句って愉快だなあと思う。俳句雑誌の句をぱらぱら拾い読みしていて、たいていは失礼ながらすうっと通りすぎてしまうのだが、ときどき急ブレーキをかけることがある。掲句も、そうだった。むろん、引っ掛かるものがあったからだ。つまり「ひとかどの女」という表現に、立ち止まらされてしまったのである。たいてい「ひとかどの」とくれば「男」に決まっているだろうが。えっ、なぜ「女」なんだと、眼をこすった。こうなれば、もう作者の勝ちである。負けた私(笑)は、しょうことなく、何度か繰り返し読むことになった。で、いろいろと眠る山と女を関係づける普遍性必然性は那辺にありや、などと思いをめぐらせてみることになった。普遍性必然性については、すぐに納得できたような気がする。「ひとかどの男」であれば、どんなことがあろうとも、眠ったりはしないだろう。ところが「女」は、そこらへんで「男」とは違いがありそうだ。図太いというのとはだいぶニュアンスに差があるのだけれど、神経のありどころが「男」とは違っているところがあるのは確かだ。だから、句に「男」とあったなら、面白くも何ともない。ただ、眠る山がだらしなく写るばかりだからある。そこへいくと、女の寝姿に見立てた作者の感性はなかなかのもの。それもなまじな女ではなく「ひとかどの女」なのだから、素晴らしい。と言いつつも、はて「ひとかどの女」って、どんな女なのかは、私にはまったくわからない。そこで邪推に近い言い方になるが、実は作者にもよくわかっていないのだと思った。でも、それでいいのだ。この句に滲んでいるのは、作者の女性観の一端だろう。それが、冬の山を句にしようとしているうちに、ぽろりと口をついて出てきちゃったということだろう。俳句なればこそ、こういうことが起きるのである。「俳句」(2003年2月号)所載。(清水哲男)




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