January 292003
雪兎わが家に娘なかりけり岩城久治季 February 252004 水温む今月中に返事せよ岩城久治季語は「水温(ぬる)む」で春。気の進まない用件への「返事」を催促された。それも「今月中に」と、ぴしりと期限を切られてしまったのである。「と、言われましてもねえ、もごもごと口籠るしかない」とは、作者のコメントだ。「水温む」のゆるやかな時間の流れのなかに、「返事せよ」の性急な時間つき請求を、直球のように投げ込んだところが面白い。が、面食らったというのでもなく、観念したというのでもなく、やっぱりどうしようかとカレンダーを眺めつつ逡巡する作者。でも、自分で困っているわりには、どこかまだ余裕のある感じで詠んでいる。返事を急がれてもそんなに切羽詰まった中身の用件じゃないからだろうが、しかし、この余裕のほとんどは「水温む」の季語があってこそ感じられるものだ。「水温む」のおかげで、独特の味わいのする句になっている。一見、上五の季語は他の似たようなそれと、いくらでも交換可能な感じだ。しかし、それはできないのである。ちなみに「水温む」の代わりに、たとえば親戚の季語「春の水」や「雪解水」などと置き換えてみれば、よくおわかりいただけるだろう。いずれの場合にも、「今月中に返事せよ」がとても刺々しい言い方に変質してしまう。私には「春の水」だといかにも底意地が悪そうな物言いに写るし、「雪解水」だと矢の催促のニュアンスがぐっと濃くなる感じを持つ。これらでも句にならないとは言わないが、一読者としては掲句の微苦笑の味がいちばん好きだし、いちばん美味しい。俳人(表現者)は読者に、いつも味の良いサービスの提供に心を配っていなければ……。軽い意味でも重い意味でも、私はそう思っている。「俳句」(2004年3月号)所載。(清水哲男) November 082004 柿博打あつけらかんと空の色岩城久治季語は「柿博打(かきばくち)」で秋。忘れられた季語の一つ。私も、宇多喜代子が「俳句」に連載している「古季語と遊ぶ」ではじめて知った。要するに、柿の種の数の丁半(偶数か奇数か)で勝負を決めた賭博のことだ。種の数は割ってみなければわからないから、なるほど博打のツールにはなる。しかし、柿まで博打のタネにするとはよほど昔の人は博打好きだったのだろうか。とにもかくにも季語として認知されていたわけだから、多くの人が日常的にやっていたに違いない。たしかマーク・トゥエインだったと覚えているが、メキシコ人の博打好きをめぐって、こんなことを書いていた。彼らの博打好きは常規を逸していて、たとえば窓ガラスを流れ落ちてゆく雨粒でさえ対象にする。どちらの粒が早く落ちるかに賭けるのだ……。これを読んだときに思わず笑ってしまったけれど、どっこい灯台下暗しとはこのことで、我ら日本人も柿の種に賭けていたとはねえ。メキシコ人を笑えない。句の博打は、宇多さんが書いているように、退屈しのぎみたいなものなのだろう。勝っても負けても、ほとんど懐にはひびかない程度の賭けだ。だから「あつけらかん」。快晴の秋空の下、暇を持て余した人同士が、つまらなそうに柿を割っている様子が見えるようで、微笑を誘われる。「俳句」(2004年11月号)所載。(清水哲男) February 292008 灯点して妻現れず春の家岩城久治十年ほど前、どこかの年鑑でこの句を最初眼にしたとき、尋常ならざる気配を感じたのだった。帰宅して暗い部屋に灯を点す。誰も現れない。現れるはずの、というより既に灯を点して待っているはずの妻がいないのだ。買い物など用事があって予定通りの不在なら妻現れずというだろうか。そして「春の家」の不思議さ。春という季題を用いる場合、それを「家」の形容に用いるのは、ふつうなら、特に伝統派なら、繊細さの欠けた用法とするところだ。季節感を持たない「家」に安直に「春」を重ねたと。しかも「春の家」はイメージとしては茫とした明るさを提示する。つまりこの句は何か変なのだ。日常を描いていながらこの叙述から湧き起こってくる違和感は何だろうと考えていくうち、この「妻」はひょっとして既にこちら側の世界にいないのではなかろうかという推測を抱くに至る。そんな感想を持ってしばらくして、作者が妻を亡くされた直後の作という事実をどこかで眼にした。思いはどこかで言葉に浸透し、形式と一緒になって言葉が持っている機能の限界を超えて鑑賞者に伝わる。どんなに言葉の機能を探り規定しても、そこからはみ出す「霊」のごときものがある。作者の名や作者の人生がわからなければ鑑賞できないのは俳句が芸術性において劣っている証拠だという「第二芸術」の問題提起が戦後あった。妻が死んだとも言わず、それを暗示する暗い内面を書き記すでもなく、それでもその深い悲しみが伝わる。これを形式の恩寵と言わずになんと言おう。桑原武夫さんにこの句を見せてみたい。『平成俳句選集』(1998)所収。(今井 聖)
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