東京に風の季節がやってきた。これから三月中旬くらいまでは吹きまくる。おお、ヤだ。




2003ソスN1ソスソス30ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 3012003

 美しき鳥来といへど障子内

                           原 石鼎

語は「障子(しょうじ)」で冬。どうして、障子が冬なのだろうか。第一義的には、防寒のために発明された建具ということからのようだ。さて、俳句に多少とも詳しい人ならば、石鼎のこの句を採り上げるのだったら、なぜ、あの句を採り上げないのかと、不審に思われるかもしれない。あの句とは、この句のことだ。「雪に来て美事な鳥のだまり居る」。おそらくは、どんな歳時記にでも載っているであろう、よく知られた句である。「美事(みごと)な」という形容が、それこそ美事。嫌いな句ではないけれど、しかし、この句はどこか胡散臭い感じがする。石鼎の句集を持っていないので、掲句とこの句とが同じ時期に詠まれたものかどうかは知らない。知らないだけに、掲句を知ってしまうと、美事句の胡散臭さが、ますます募ってくる。はっきり言えば、石鼎は実は「美事な鳥」を見ていないのではないか。頭の中でこね上げた句ではないのか。そんな疑心が、掲句によって引きだされてくるのだ。句を頭でこね上げたっていっこうに構わないとは思うけれど、いかにも「写生句」ですよと匂わせているところが、その企みが、鼻につく。事実は、正真正銘の写生句なのかもしれないし、だとしたら私は失礼千万なことを言っていることになるのだが、そうだとしても、掲句を詠んだ以上は、美事句の価値は減殺されざるを得ないだろう。どちらかを、作者は捨てるべきだったと思う。私としては、掲句の無精な人間臭さのほうが好きだ。「美しき鳥」が来てますよと家人に言われても、寒さをこらえてまで障子を開けることをしなかった石鼎に、一票を投じておきたい。『新歳時記・冬』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


January 2912003

 雪兎わが家に娘なかりけり

                           岩城久治

雪兎
語は「雪兎」。盆の上に、雪でこんもりと兎の形を作ったもの。最近はあまり見かけなくなったが、単純な形なのに、とても愛らしい。目には南天などの赤い実を使い、青い葉で耳を、松葉でひげをあしらったりする。そんな雪兎を、作者が作ったのか、奥さんが作ったのか。眺めているうちに、ついに「わが家」には「娘」がいなかったことを、いまさらのように再確認したのだった。子供は、男ばかり。雪兎を作っても、何も言わない。いや、ちゃんと見たのかどうかもわからない。あ〜あ、女の子がいたら、「わあ、かわいい」と言ってくれただろうし、その様子こそが可愛らしかっただろうにと、嘆息しているのだ。逆にわが家は娘だけだから、また違った嘆息がなきにしもあらずだけれど、句はなかなかに人情の機微をよく捉えていて、地味ながら良い句だと思った。ついでに思い出したが、幼いころ、母がよく雪兎を作って小さな玄関に飾っていた。私は男の子だったから、やはり何も言わなかった。むろん、弟も。そして、父も。あのときの母もまた、やはり掲句の作者のように、喜んでくれる女の子がいてくれたらばと、ちらりと不満に思ったかもしれない。句は雑誌「俳句」に連載されている宇多喜代子「古季語と遊ぶ」に引用されていた作品。2003年2月号。図版は、菓舗「ふくおか」のHPに載っていた食べられる「雪兎」。つくね芋(関東では大和芋)をすりおろし、砂糖と上用粉(関東では上新粉)を加えて生地とし、餡を包んで蒸したものという。食べてしまうには、もったいないような……。(清水哲男)


January 2812003

 駅出口寒月喧嘩地区で消え

                           長谷部さかな

の句を読んで、すぐに微笑を浮かべたあなたは、さすがです。言葉に、とても敏感な方です。会社帰りだろうか。駅の出口で空を仰ぐと、見事な寒月がかかっていた。歩きはじめて、もう一度みておこうと振り仰いだが、そこは通称「喧嘩地区」と言われる雑然とした飲み屋街。ガード下なのか、あるいは雑居ビルが立て込んでいるために、もう見えなかった。消えていた。ちょっと残念。よくあることですね。私は、新橋の烏森口あたりをイメージしました。ところで、この句ににやりとしなかった方は、もう一度、句をよくにらんでください。にらんでいるうちに、するするっと句がほどけてくるはずです。そうです。掲句はさかさまから読んでも、同じように読める仕掛けになっているのでした。いわゆる回文形式ですね。作者はよほどの凝り性らしく、この一句を含めて「いろは歌留多」を作ってしまいました。つまり、句の出だしの仮名を「い、ろ、は、……」と変えていき、最後の「京」まで全部で四十八句を、いずれも回文俳句に仕立て上げたというわけです。すべてが有季定型句ですから、ずいぶんと時間がかかったことでしょう。大変な人もいたものです。遊びといえば、遊び。でも、言葉を感情や感動から放つのではなく、がんじがらめの形式に合わせて紡ぎだすことで、きっと何かが見えてくるような気がします。試してみようかな。『俳句極意は?〜回文俳句いろは歌留多』(2003・北辰メディア)所収。(清水哲男)




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