ついに舞い込みました。社会保険庁から例の書類(特に名を秘す)が……。むむむ、む。




2003ソスN2ソスソス8ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 0822003

 寡作なる人の二月の畑仕事

                           能村登四郎

かな立春後の二月といえども、いまごろの「畑仕事」は少々早すぎる。と、これは昔の農業の話だけれど……。三十数年も前の新潮文庫『俳諧歳時記』(1968)で掲句を知ったときに、すぐに心に沁みた句だった。二月になると、思い出す。「寡作(かさく)」とは、最近は、才能に恵まれながらも少ししか作品を書かない作家や詩人などについて言われるが、元来は少ししか田畑を持てなくて、少ししか作物を作れなかった人の事情のことだった。掲句の「寡作」は、どちらとも取れるが、そんなことはどうでもよろしい。私が心に沁みたのは、子供のころの同じ集落に後者の意味での寡作の人がいたからである。とにかく、その人の畑仕事は極端と言ってよいほどに早めで、周囲の大人たちが半ば冷笑していたことを覚えている。見渡しても、まだ誰もいないところでぽつんと一人、その人は黙々と仕事をはじめるのだった。それが信念だったのか、あるいはそうしなければ仕事が間に合わなかったのか、それは知らない。いずれにしても、村の風(ふう)からすると、変わり者には違いなく、しかし、なんとなく私はその人が好きだった。大人たちが、またはじまったとばかりに憫笑していると、義憤すら覚えたものである。いわゆる他所者でもないのに、何故その人は、村のつきあいもほとんどせずに、超然としていられたのだろうか。その人と出会っても、小学生の私はぺこりとお辞儀をするだけで、ろくに口を聞いたこともない。が、いまだに、本名も家の場所もちゃんと覚えている。そんな個的な事情から、覚えて離れない句もあるということです。ところで、掲句が載っていた新潮社版歳時記は、絶版になって久しい。手元の文庫本もボロボロになってきた。再販を望んでおきたい。(清水哲男)


February 0722003

 町は名古屋城見通しに雛売りて

                           久米三汀

語は「雛売る・雛市(ひないち)」で春。三月節句の前に、雛や雛祭りに用いる品々を売る市のことだが、現在ではデパートや人形専門店のマーケットに吸収されてしまった。掲句は、句集の刊行年から推して、明治期の雛市の様子を詠んだものだろう。「名古屋城」ではなく「名古屋」で切って、「城」は「しろ」と読む。長野県の出身だった作者は、とにかく市の豪勢さには驚いたようだ。名古屋城が「見通しの」景観の見事さもさることながら、売られている雛の格も、故郷のそれとは比べ物にならなかったに違いない。なにしろ嫁入りの結納を受け取ったら、その五倍から十倍は嫁入り道具にかけたという土地柄だ。いまでも、名古屋の嫁入りはよほど豪華だという話をよく聞くし、新婚向けのマンションがなかなか売れなかった時代もあったという。一戸建てでなければ家じゃない、あんな西洋長屋に住んでは沽券にかかわるというわけだ。他所者としては、そうした名古屋人のプライドや見栄の張り方に少しは反発を覚えてもよさそうなものだけれど、作者はあっさりと「町は名古屋」だ、たいしたものだとシャッポを脱いでしまっている。挨拶句かもしれないが、このシャッポの脱ぎ方から、往時の名古屋雛市の豪華さ華麗さがしのばれる。雛市のときには、同時に旧家が自慢の雛を、道を通る人に見えるように自宅で公開したというから、そちらもさぞや見事だったはずだ。地元の人の句ではないだけに、説得力を持つ。『牧唄』(1914)所収。(清水哲男)


February 0622003

 鯛焼のはらわた黒し夜の河

                           吉田汀史

語は「鯛焼(たいやき)」で冬。冬は、あつあつに限るからだろう。ところで、掲句の鯛焼は、どう考えてもあつあつとは思えない。むしろ、もう冷めきってしまっている。だから、黒いのは餡ではなくて「はらわた」なのだ。せっかく求めた鯛焼を、何故いつまでも持ち歩いて食べなかったのか。句からは何も事情はわからないけれど、その事情を読者に想像させずにはおかないところが、作者の手柄だと思う。女連れだ。と、これは私の想像だ。そうでなければ、まず男一人で鯛焼を買うことはないだろうし、第一に、寒い夜の河畔にたたずむこともあるまい。たわむれに、二人で鯛焼を買ったまではよかった。が、歩いているうちに込み入った話になり、だんだんお互いに無口になり、気がついたら河畔に立っていたというわけだ。すっかり気まずくなった雰囲気を断ちきろうとするかのように、鯛焼を二つに割ってはみたものの……。「はらわた」のような黒い餡が目に沁みて、なおさらに重苦しい気分に落ち込んでいる。かすかに水面が見えるだけの「夜の河」も、あくまでもどす黒い。その昔、吉村公三郎がはじめて撮ったカラー映画に『夜の河』(1956・松竹)がある。もしかしたら、作者は、この映画を思い出して作句したのかもしれない。道ならぬ恋の二人の間に立ちはだかった動かせないものの象徴として、このタイトルは付けられていた。俳誌「航標」(2003年2月号)所載。(清水哲男)




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