MacOSXでUNIXソフトを動かしてみた。ありゃりゃ、また勉強することが増えてしまった。




2003ソスN2ソスソス19ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 1922003

 春萱に氷ノ山その氷のひかり

                           友岡子郷

ずは、句の読み方を。「はるかやにひょうのせんそのひのひかり」。「氷ノ山(ひょうのせん)」という珍しい読みの名の山は、ずいぶんと有名らしいが、掲句ではじめて知った。この山の名をこよなく愛するという作者によれば、「兵庫、鳥取二県の接点にそびえる高岳で、厳冬のころは風雪に荒(すさ)ぶ険しさがあるゆえ、この名が付いたにちがいない。人界から離れて、きびしい孤高を保っているかのような山の名である」。調べてみたら、中国山脈の山のなかでは、大山についで二番目の高さだという。早春。名山を遠望する作者の周辺には、すでに「萱(かや)」や他の野の草が青々と芽吹いており、本格的な春の訪れが間近いことを告げている。だが、彼方にそびえ立つ氷ノ山にはまだ雪が積もっていて、厳しい「氷(ひ)のひかり」を放っている。このコントラストが、非常に美しい。このとき、作者に見えているのは、おそらく山頂付近だけなのではあるまいか。場所にもよるだろうが、絵葉書の富士山のように、すそ野近くまでは見えていないのだと思う。したがって、ますますコントラストが際立つ。「ひ」音を畳み掛けた手法も、実景そのものにくっきりとしたコントラストがあっての上での、必然的なそれだろうと読んだ。『日の径』(1980)所収。(清水哲男)


February 1822003

 電文のみじかくつよし蕗のたう

                           田中裕明

語は「蕗のたう(蕗の薹)」で春。電報が届いた。みじかい「電文」だが、実に簡潔で力強い。読者には祝電か弔電かはわからないが、たとえ弔電にしても、作者は大いに励まされている。折りしも、早春の候。いち早く萌え出た「蕗のたう」のように、その電文は「みじかくつよし」と写ったというのである。「蕗のたう」は電文のありようの比喩であると同時に、作者の心のなかに灯った明るい模様を示していて、説得力がある。それにしても、最近は電報を打つことも受け取ることも少なくなった。昔は冠婚葬祭向けにかぎらず、急ぎの用件には電報を使った。例の「カネオクレタノム」の笑い話が誰にも理解できたほどに普及していたわけだが、いまではすっかり電話やメールに座をあけわたしている。電報代は安くなかったので、頼信紙の枡目とにらめっこしながら、一字でも短くしようと苦労したのも今は昔の物語。若い人だと、電報を打ったことのない人のほうが、圧倒的に多いだろう。……と思っていたら、最近では「キティちゃん電報」なるものが登場して、女の子の間ではけっこう人気があるのだそうな。そしてこのところ、もう一つ増えてきたのは、ヤミ金融業者が「カネカエセ」と発信する督促電報だという。たとえ電話代より高くついても、連日夜中に配達させると、近所の人たちの好奇心をあおることにもなるので、心理的な効果が大きいと睨んだ企みだ。いくら簡潔な電文でも、こいつだけは「蕗のたう」とはまいらない。『先生から手紙』(2002)所収。(清水哲男)


February 1722003

 世の中よ蝶々とまれかくもあれ

                           西山宗因

者・宗因は、言わずと知れた江戸期談林派の盟主。とにかく(「とまれかくもあれ」が「とまれかくまれ」に言い掛けてある)、「世の中」なんてものは、深刻に考えだしたらキリがない。「蝶々」が花から花へ止まったり移ったりするように、すべからく我々も好き勝手なことをして生きるべきだ(「かくもあれ」)と呼びかけている。「そんなことを言われても無理……」という読者の反応も、ちゃんと計算済みの句だ。というよりも、本人がいちばん「無理」を承知の上での作句なのだろう。この句から自然に思い起こされるのは、誰もが知っている「ちょうちょう」という子供の歌だ。♪ちょうちょう ちょうちょう/菜の葉に とまれ/菜の葉に あいたら/桜にとまれ……。作詞は明治期の野村秋足という人だが、もしかすると、掲句を踏まえているのかもしれない。と思えるほどに、内容が酷似している。こんな享楽思想を、いたいけない子供たちに吹き込んでよいものだろうか(笑)。蛇足ながら、「ちょうちょう」のメロディは日本製ではない。原曲がスペイン民謡であることは、知る人ぞ知るところ。さて、また新しい一週間のはじまりですね。今週もお互いに、「とまれかくまれ」掲句なんぞは忘れて(!?)がんばりましょうや。(清水哲男)




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