シャープペンシルをいただいたが、すぐに芯を折ってしまう。筆圧が高いせいなのです。




2003ソスN2ソスソス21ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 2122003

 朝寝して名刺用なくなりにけり

                           緒方 輝

語は「朝寝」で春。春の朝の寝心地は格別で、うつらうつらとつい寝過ごしてしまう。そんな快適な心地も、よく考えてみれば、寝過ごしてはいけない立場の人のものだろう。作者は、定年退職後のはじめての春を迎えているのだと思える。以前と同じようにうつらうつらとしながらも、もはや「名刺用なく」なった身にとっては、うつらうつらにも従来とは違う感じが伴っているのだ。このまま、いつまでもうつらうつらしていてもよいのだと、誰に文句を言われるわけでなしと、うつらうつらする気分には、しかし、名状しがたい悲しさが付け加わる。私は定年どころか、二十代の後半で勤めた会社が三度も駄目になった体験があるので、定年退職の経験はないけれど、句の言わんとするところは少しはわかるような気がする。少しはと言うのは、私の体験は若い時代のものだったので、まだぼんやりと未来を見つめることができたからだ。が、多くの定年退職者には、再び名刺を必要とするような社会的な明日はないのが普通と考えてよい。当人の意志や思惑とは別に、社会のシステムは極めて冷厳に動いていくのだからである。江戸期の狂歌に「世の中に寝るほど樂はなかりけり浮世の馬鹿は起きて働く」というのがある。失職した当時の私は、こいつを壁に貼り付けて日々眺めていたっけ。この自嘲の歌を笑える「馬鹿」な人は、よほど我が身を幸せと思わなければいけないのである。とりわけて、いまどきの世相のなかでは。『炎環・新季語選』(2003)所載。(清水哲男)


February 2022003

 母情より父情がかなし大試験

                           田島 澪

語は「大試験」で春。明治のはじめころには、進級試験を「小試験」、卒業試験を「大試験」と言ったので、この季語が生まれたようだ。が、掲句のそれは、現今の入学試験のことだろう。受験生のいる家庭では、母親がなにくれとなく世話をやき、父親はたいていが黙っていて、何もしてやらない。仕事が忙しいということもあるけれど、母親のように親密に子供に接することができないので、何もして「やらない」のではなくて、何もして「やれない」のが実情だと思う。その「父情」が「かなし」と詠んだ作者は、俳号から推すと女性だろうが、自身が受験生であったときに、かつての父親の自分に対するもどかしげな感情を、敏感に察知していたということになる。あるいは、作者は既に受験生の母親であり、その立場から見ていて、自分よりも夫のほうがよほど子供のことを心配する「情」を持っていると実感しているのかもしれない。いずれにせよ、不器用な「父」への思いやりに溢れた句だ。読者は自分が受験生のころのことを思い出したり、または現に受験生の親であることを自覚したりと、掲句に接しての思いはいろいろだろう。その「いろいろ」を引っ張り出す力を、この句は持っている。「かなし」の根源は、受験制度そのものにあるなどと、ここで正論を述べ立ててもはじまらない。受験生を抱えた父も母もが、そんな理屈とは別次元のところで、同じように「かなし」なのだ。だが、いちばん孤独で「かなし」なのは、当の受験生であることを、この句は言外にくっきりと示しているとも思えた。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


February 1922003

 春萱に氷ノ山その氷のひかり

                           友岡子郷

ずは、句の読み方を。「はるかやにひょうのせんそのひのひかり」。「氷ノ山(ひょうのせん)」という珍しい読みの名の山は、ずいぶんと有名らしいが、掲句ではじめて知った。この山の名をこよなく愛するという作者によれば、「兵庫、鳥取二県の接点にそびえる高岳で、厳冬のころは風雪に荒(すさ)ぶ険しさがあるゆえ、この名が付いたにちがいない。人界から離れて、きびしい孤高を保っているかのような山の名である」。調べてみたら、中国山脈の山のなかでは、大山についで二番目の高さだという。早春。名山を遠望する作者の周辺には、すでに「萱(かや)」や他の野の草が青々と芽吹いており、本格的な春の訪れが間近いことを告げている。だが、彼方にそびえ立つ氷ノ山にはまだ雪が積もっていて、厳しい「氷(ひ)のひかり」を放っている。このコントラストが、非常に美しい。このとき、作者に見えているのは、おそらく山頂付近だけなのではあるまいか。場所にもよるだろうが、絵葉書の富士山のように、すそ野近くまでは見えていないのだと思う。したがって、ますますコントラストが際立つ。「ひ」音を畳み掛けた手法も、実景そのものにくっきりとしたコントラストがあっての上での、必然的なそれだろうと読んだ。『日の径』(1980)所収。(清水哲男)




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