今宵は久しぶりに新宿に。もっとも、最近はどこへ行くのも「久しぶり」なのですが。




2003ソスN2ソスソス22ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 2222003

 春ながら野に南極の昏さあり

                           三宅一鳴

田蛇笏に『現代俳句の批判と鑑賞』という正続二冊の角川文庫があり、続(1954)のほうの目次から見つけた句。目次には採り上げた句と作者名のみが並んでいて、前書や添書は省略されている。実は前書のある句だったのだが、目次だけ見て心引かれ、蛇笏の鑑賞を読む前に、次のように解釈した。どこまでも明るい春の野が広がっている。まことに駘蕩たる気分だ。そんな気分に心を遊ばせているうちに、ふと気づいたことには、春の野は単に明るいばかりではないということだった。明るさのその奥に、何か昏(くら)いものが潜んでいる。見つめていると、ますますそれが実感として迫ってくる。この昏さは何だろうか。一瞬考えて作者は、直覚的に地球の極に思いがいたった。そうだ。はるか地の果ての極の磁力が、かすかに春の野に及んでいるがゆえの昏さなのだ……。眼前の何でもないような光景にも、常に全地球的な力が及んでいるという発見に、おそらく作者は興奮を覚えただろう。おおむねこのように読んで、さて蛇笏の鑑賞や如何にとページを繰ってみたら、句には次の前書があったのだった。「亜國ヴエノスアイレス市より智國サンチアゴ市まで飛行機にて約六時間を翔破す」。句景をてっきり日本の春の野と思い込んでいたので、読んだ途端にショックを受けた。実景だったのか。だったら、相当に解釈が異ってくる。蛇笏は、日ごろの作者の修練のおかげで、俳句が外国の景色の前でもたじろいでいない一例として、句を誉めている。ま、それはその通りなのかもしれないが、この前書さえなければ、もっと良い句なのになアと、いまの私は妙に意固地になっている。(清水哲男)


February 2122003

 朝寝して名刺用なくなりにけり

                           緒方 輝

語は「朝寝」で春。春の朝の寝心地は格別で、うつらうつらとつい寝過ごしてしまう。そんな快適な心地も、よく考えてみれば、寝過ごしてはいけない立場の人のものだろう。作者は、定年退職後のはじめての春を迎えているのだと思える。以前と同じようにうつらうつらとしながらも、もはや「名刺用なく」なった身にとっては、うつらうつらにも従来とは違う感じが伴っているのだ。このまま、いつまでもうつらうつらしていてもよいのだと、誰に文句を言われるわけでなしと、うつらうつらする気分には、しかし、名状しがたい悲しさが付け加わる。私は定年どころか、二十代の後半で勤めた会社が三度も駄目になった体験があるので、定年退職の経験はないけれど、句の言わんとするところは少しはわかるような気がする。少しはと言うのは、私の体験は若い時代のものだったので、まだぼんやりと未来を見つめることができたからだ。が、多くの定年退職者には、再び名刺を必要とするような社会的な明日はないのが普通と考えてよい。当人の意志や思惑とは別に、社会のシステムは極めて冷厳に動いていくのだからである。江戸期の狂歌に「世の中に寝るほど樂はなかりけり浮世の馬鹿は起きて働く」というのがある。失職した当時の私は、こいつを壁に貼り付けて日々眺めていたっけ。この自嘲の歌を笑える「馬鹿」な人は、よほど我が身を幸せと思わなければいけないのである。とりわけて、いまどきの世相のなかでは。『炎環・新季語選』(2003)所載。(清水哲男)


February 2022003

 母情より父情がかなし大試験

                           田島 澪

語は「大試験」で春。明治のはじめころには、進級試験を「小試験」、卒業試験を「大試験」と言ったので、この季語が生まれたようだ。が、掲句のそれは、現今の入学試験のことだろう。受験生のいる家庭では、母親がなにくれとなく世話をやき、父親はたいていが黙っていて、何もしてやらない。仕事が忙しいということもあるけれど、母親のように親密に子供に接することができないので、何もして「やらない」のではなくて、何もして「やれない」のが実情だと思う。その「父情」が「かなし」と詠んだ作者は、俳号から推すと女性だろうが、自身が受験生であったときに、かつての父親の自分に対するもどかしげな感情を、敏感に察知していたということになる。あるいは、作者は既に受験生の母親であり、その立場から見ていて、自分よりも夫のほうがよほど子供のことを心配する「情」を持っていると実感しているのかもしれない。いずれにせよ、不器用な「父」への思いやりに溢れた句だ。読者は自分が受験生のころのことを思い出したり、または現に受験生の親であることを自覚したりと、掲句に接しての思いはいろいろだろう。その「いろいろ」を引っ張り出す力を、この句は持っている。「かなし」の根源は、受験制度そのものにあるなどと、ここで正論を述べ立ててもはじまらない。受験生を抱えた父も母もが、そんな理屈とは別次元のところで、同じように「かなし」なのだ。だが、いちばん孤独で「かなし」なのは、当の受験生であることを、この句は言外にくっきりと示しているとも思えた。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)




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