February 232003
春愁や大旋回のグライダー
宮嵜 亀
春ははなやかな季節だが、その反面、いずれの季節にもない寂しさに誘われる。歳時記で「春愁(しゅんしゅう)」の説明を読むと、たいていこんなふうに書いてある。この微妙な心象風景が季語として定着しているということは、春愁は誰にでも起きることであるのだろうし、たとえ今の自分に起きていなくても、他人の春愁に納得はできるということなのだろう。考えてみれば、不思議な季語だ。春愁なんて言葉を知る以前から、私は春先になると、どうもいけなかった。いわれなき、よるべなき寂しさに襲われては、苦しい時間を過ごすことが多かった。自分では完全に病気だと思っていたけれど、この季語を知ってからは、自分だけではないのかもしれないと気を取り直し、少しは楽になったような気がしている。だとしても、いわれなき寂しさにとらわれるだなんて、やはり一種の病気には違いないだろう。どなたか、専門家のご意見を切にうかがいたい。さて、掲句はそんなやりきれない状態に陥った作者が、大空を悠々と旋回するグライダーを見やっている図だ。春愁の不健康と「大旋回のグライダー」の健康とのミスマッチが、面白い効果をあげている。そのあたりを初手からねらった作句であったとしても、ことさらに企んだ形跡は残されていない。めったに見られないグライダーの飛行を持ちだしてはいても、少しも嫌みが感じられないのは、作者がよほどこの「病気」と親しいからだろう。親しくないと、一見突飛な取り合わせに仕立てておいて、実は突飛ではないところに落としこむ微妙なセンスは発揮できないと見た。なお、作者の名前「亀」は本名で「ひさし」と読む。『未来書房』(2003)所収。(清水哲男)
July 082003
レンジにてチンして殺そか薔薇の花
宮嵜 亀
季語は「薔薇(ばら)」で夏。句集に寄せた一文で、坪内稔典が書いている。「レンジでチンする、というはやりの言葉(俗語)を取り込み、『殺そか』の後に何が来るのか、オカンかトカゲか、あるいはアブラムシか、と予想していたら、なんと『薔薇の花』が来た意外さ ! もちろん、この意外さによって俳句(詩)が成り立ったのである。ともあれ、レンジでこともあろうに薔薇をチンするという意外さは、同時に少しきざっぽくもある。あるいは少年めいていると言ったらいいか」。そのとおりで、俳句になったのは確かに意外さの効果である。でも、こうした句の場合、何でもかでも意外なものを持ってくれば即俳句になるのかと言えば、そうはいかないところが厄介だ。当て推量だけれど、作者当人は案外意外とは思っていないのだと思う。何か豪奢で美々しいものに対しての故無き殺意。これは、誰の心にも微量にもせよ潜在しているのではあるまいか。それが作者にとってはたまたま「薔薇の花」だったのであり、掲句に共鳴した読者は「薔薇の花」には何とも思わなくても、瞬間的に自己に固有の殺意の対象にずらして読むということをしたのではないか。その対象は、むろん他人にとっては意外なものだ。だが、当人にとってはそれほど意外さのないものである。そうした咄嗟の読み替えを、読者にうながすことができるかどうか。できれば俳句になるのであり、できなければ駄句以下となってしまう。作者に贔屓して言っておくならば、「少しきざっぽく、少年めいて」映る発想だからこそ、逆に読者のなかで眠っている故無き殺意に思い当たらせる力が出たのである。『未来書房』(2003)所収。(清水哲男)
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