2003N3句

March 0132003

 桜餅三つ食ひ無頼めきにけり

                           皆川盤水

まりに美味なので、ついたてつづけに「三つ」も食べてしまった。で、いささか無法なことでもしでかしたような、狼藉を働いたような感じが残ったというのだろう。和菓子は、そうパクパクと食べるものではない。食べたって構わないようなものだが、やはりその姿を楽しみ、香りを味わい賞味するところに、他の菓子類とは違う趣がある。「葉の濡れてゐるいとしさや桜餅」(久保田万太郎)という案配に……。しかし、こんなことを正直に白状してしまっている掲句は、逆に「無頼」とは無縁な作者のつつましい人柄を滲ませていて、好もしい。こうした体験は、誰にでも一度や二度はあるのではなかろうか。大事にしていた高級ブランデーを、つい酔いにまかせてガブガブ飲んじゃったときとか、ま、後のいくつかの例は白状しないでおくけれど、誰に何を言われる筋合いはなくても、人はときとして自分で勝手に「無頼」めき、すぐに反省したりする。そこらへんの人情の機微が的確に捉えられていて、飽きない句だ。なお余談ながら、一般的に売られている桜餅は、一枚の桜の葉を折って餅を包んであるが、東京名物・長命寺の桜餅は大きな葉を三枚使い、折らずに餅が包んである。『随處』(1994)所収。(清水哲男)


March 0232003

 出替や幼ごころに物あはれ

                           服部嵐雪

は別れの季節。昔もそうだった……。季語は「出替(でがわり)」で春。いまや廃れてしまった風習だ。奉公人が契約期間を終えて郷里に帰り、新しい人と入れ替わること。その日は地方によって一定していないが、半期奉公の人が多かったので、三月と九月に定められていたようだ。三月に郷里に戻る人は、冬の間だけ出稼ぎに来て、戻って本業の農作業に就いた。現代で言う季節労働者である。なお、秋の出替は「後の出替」と言って春のそれと区別していた(曲亭馬琴編『俳諧歳時記栞草』参照)。新しい歳時記からは削除された項目だけれど、それでも1974年に出た角川版には掲載されている。たとえば『半七捕物帳』で有名な岡本綺堂の句に「初恋を秘めて女の出代りぬ」があるから、昭和初期くらいまでは普通に通用していた季語であることが知れる。掲句は、半年間慣れ親しんだ奉公人の帰る日が来て、主家の子供が「幼(おさな)ごころ」ながらも、物の「あはれ」を感じている。よほど、その人が好きだったのだろう。もう二度と、会えないかもしれないのだ。相手も去りがたい思いで、別れの挨拶をしたに違いない。この子がもう少し長じていれば、綺堂の句の世界につながっていくところである。『猿蓑』所載。(清水哲男)


March 0332003

 古雛をみなの道ぞいつくしき

                           橋本多佳子

年雛祭になると、詩人・高田敏子の小さい文章を思い出す(池田彌三郎監修『四季八十彩』所載)。なのに、毎年タイミングを逸して、ここに書けないできた。今年こそはというわけで、紹介しておく。詩人は、終戦までの三年ほどを、台湾で生活していた。「引揚げとなったのは、終戦翌年の三月末で雛は飾られたまま、(中略)リュックを背負って家を離れる私達を見送ってくれたのです。/戸口を出るとき振りむくと、家財道具もみな処分してしまった部屋に、雛は明るい静けさで座していられて……私はなぜあのとき、内裏さまだけでもかかえにもどらなかったのかと悔やまれています。雛だけは処分するのもつらく、最後まで飾っていたのですのに……。雛はその後どうなったのでしょう。雛の行くえが心にかかっています」。置き去りにせざるを得なかった雛は、長女の初節句に調えたものだった。その「長女に女の子が生まれて、初節句の雛を求めに売場をめぐっていたとき、娘がいいました。『お母さん、なるべくよいのにしてね、もう戦争もないでしょ。いつまでも大事にしてあげられるのですもの。』」。ところで、掲句の前書は次のようだ。「祖母の雛上野の戦火のがれて今も吾と在り」。多佳子の祖母は、彰義隊の戦いにあっている。戦争戦後の混乱のなかで、このほかにも、雛たちのたどった運命はさまざまだろう。いつくしき雛の歴史は、またいつくしき「をみな」の歴史そのものでもある。NO WAR !「古雛」は「ふるびいな」。『信濃』(1946)所収。(清水哲男)


March 0432003

 水浅し影もとどめず山葵生ふ

                           松本たかし

語は「山葵(わさび)」で春。「生ふ」は「おう」。曲亭馬琴編『俳諧歳時記栞草』に「山葵、加茂葵に似て、其根の形・味、生姜に似たり。故に山葵・山姜の名あり。中夏(もろこし)の書にみえず。漢名しらず」とある。漢名がわからないのも道理で、日本だけにしか生えない植物だ。私の育った山口県の山陰側の渓流には、自生していた。山葵の句のほとんどは栽培してある山葵田を詠んだもので、なかなか自生している姿を詠んだものは見当たらない。なかで、掲句はどちらとも取れるけれど、どちらかといえば自生の姿ではなかろうか。春光の下、生えてきた「影もとどめ」ぬ、すっきりと鮮かな緑の姿が、私の郷愁を誘う。暗くて寒い農村にも、ようやく春がやってきたのだ。学校帰りに、よく小川をのぞき込んだものだった。小さな魚や蟹たちが動き回り、芹や山葵が点在し、浅い水はあくまでも清冽で、掬って飲むこともできた。そんな山葵しか知らなかったので、のちに信州穂高町の巨大な山葵田を見たときには仰天したが、あれはあれでとても美しい。以下は余談的引用。「すしとワサビの結び付きは江戸後期からで、1820年(文政3年)ころ江戸のすし屋・華屋与兵衛がコハダやエビの握りずしにワサビを挟さむことを考案し、評判となった。しかし、20年後には天保の改革により、握りずしはぜいたく品とされ、与兵衛は手鎖(てじょう)軟禁の刑に処せられ、一時衰退する。ワサビとすしの組合せが全国的に広がるのは明治になってからである〈湯浅浩史〉」。『新日本大歳時記・春』(2000)などに所載。(清水哲男)


March 0532003

 鳥雲に子の妻は子に選ばしめ

                           安住 敦

語は「鳥雲に」で春。春になって、北方に帰る鳥が空高く飛翔し、やがて雲に入って見えなくなることをいう。本来は「鳥雲に入る」だった。「鳥雲に入るおほかたは常の景」(原裕)。が、長すぎるので「鳥雲に」とつづめて用いることが多い。息子の嫁は、多く親が決めていた時代があった。そんなに昔のことじゃない。たしか私の叔父も親が決めた女性と結婚したはずだし、子供心にそんなものかと思った記憶がある。極端な例では、親が決めた人の写真も見ずに承知して、結婚した人もいたという。そんな社会的慣習のなかで、作者は「子の妻は子に選ばしめ」た。子供の意志を最大限に尊重してやったわけだが、しかし一抹の寂しさは拭いきれない。北に帰る鳥が雲に入って見えなくなるように、これで我が子も作者の庇護のもとから完全に脱して、手の届かないところに行ってしまうのだ……。「婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立」するという日本国憲法の条文が、風習的にもすっかり根づいた現今では、考えられない哀感である。いまどきの親でも、むろん子供を巣立たせる寂しさは感じるのだけれど、作者の場合にはプラスして強固な旧習の網がかぶさっている。おそらく、あと半世紀も経たないうちに、この句の真意は理解不能になってしまうにちがいない。『俳諧歳時記・春』(1968・新潮文庫)所載。(清水哲男)


March 0632003

 長閑さや鼠のなめる角田川

                           小林一茶

隅田川
語は「長閑(のどか)」で春。「角田川」は隅田川のことで、「すみだがわ」の命名は「澄んだ川」の意からという。川端を散策していると、ちっぽけな鼠が一心に水を飲む姿が、ふと目にとまった。いかにも一茶らしい着眼で、「ほお」と立ち止まり、しばらく見守っていたのだろう。警戒心を解いて水を飲む鼠の様子は、それだけでも心をなごませるものがある。ましてや、眼前は春風駘蕩の大川だ。小さな営みに夢中の鼠の視座から、視界を一挙に大きく広げて、ゆったりと陽炎をあげて流れる水面を見やれば、長閑の気分も大いにわきあがってこようというものである。小さなものから大きなものへの展開。無技巧に見えて、技巧的な句と読める。角田川と言えば、正岡子規に「白魚や椀の中にも角田川」があり、こちらは大きなものを小さなものへと入れてみせていて、もとより技巧的。比べると、企みの度合いは子規のほうがはるかに高く、この抒情はやはり近代人ならではのものだと思われた。同じ「角田川」でも、一茶と子規の時代では景観もずいぶんと違っていたろうから、そのことが両者の視座の差となってあらわれているとも考えられる。図版は、国立歴史民俗博物館所蔵の江戸屏風絵の部分。うわあ、当時の川は、こんなふうだったんだ。とイメージして一茶の句に戻ると、私の拙い読みなどはどこかに吹っ飛んでしまい、まこと大川端の長閑さが身体のなかに沁み入ってくるようだ。「一枚の絵は一万語に勝る」(だったと思う)とは、黄金期「少年マガジン」のキャッチフレーズであった。(清水哲男)


March 0732003

 袂より椿とりだす闇屋かな

                           多田道太郎

語は「椿」で春。われらが「余白句会」で高点を得た句だ。私も、一票を投じた。「闇屋」とは、敗戦後の混乱期に統制品などをどこからか手に入れてきて、高価で売りさばいた商人のこと。私は映画でしか知らないのだが、なぜかみな彼らは羽振りがよいことになっている。実際を知っている世代の小沢信男さんによれば、いわゆる「担ぎ屋」のおじさんなどとは違って、凄みのある男どもというイメージだったという。その凄みのある男が、さっと「袂」に手を入れたのだから、何か怪しげな物でも出てくると思うのが普通だ。が、意外や意外。取りだされたのは、可憐なる「椿」一輪。瞬間、その場に居合わせた人は、息を呑んだのではあるまいか。これは闇屋の演出なのか、それとも商売とは無関係な仕草だったのか。知る由もないけれど、この後で、人々はまじまじと男の顔を見つめたことだろう。この男は、いったいどういう人間なのか、と。「闇屋かな」の「かな」には、そんな思いと光景が込められていて秀抜だ。ところで、椿といえば、正木浩一句集『槇』(1989・ふらんす堂)に、次の一句がある。「椿咲くうしろ暗きを常として」。ここで掲句に戻り「ははあ……」と思うもよし、思わぬもよし。『多田道太郎句集』(2002・芸林書房)所収。(清水哲男)


March 0832003

 哲学科に入学の甥と詩の話

                           森尻禮子

語は「入学」で春。どんな話をしたのだろう。いささか気にはなるけれど、話の中身は作者が言いたいこととは、ほとんど関係はない。「哲学科」と「詩」との取りあわせから、何か生硬な言葉で「甥」が熱心に話している姿が想像できる。句としては、それで十分だ。掲句で作者が言いたいのは、彼の急速な成長ぶりである。ついこの間までは、ほんのちっちゃな子供でしかなかったのに、いつの間にか、こうして大学生になり、しかも詩の話までできるようになった。話はひどく理屈っぽいにしても、その理屈っぽさがとても嬉しく喜ばしいと、作者は目を細めている。身内ならではの感懐である。かつての私も一応「哲学科」に籍を置き「詩」を書いていたので、この「甥」の立場にあったわけだ。幸いにして(?!)、詩のことを話せる伯母(叔母)さんはいなかったのだが、この句に出会ったときには、赤面しそうになった。身内以外の人になら、いくらでも生硬な言葉で話したことがあるからだ。難解な言葉に憧れ、覚えるとすぐに使ってみたくなるのだった。その点で、哲学科は難解語の宝庫だからして、仕入れには困らなかった。西田幾多郎や田辺元の文章をせっせと引き写したノートの一冊を、まだ残してある。青春のかたみという思いもあるにはあるが、何事かを語るに際しての自戒のためという気持ちのほうが強い。『星彦』(2001)所収。(清水哲男)


March 0932003

 生き残りたる人の影春障子

                           深見けん二

く晴れた日。縁側に腰掛けているのか、廊下を通っていったのか。明るい障子に写った「人の影」を認めた。その人は、九死に一生を得た人だ。大病を患ったのかもしれないし、戦争に行ったのかもしれない。しかし作者は、ふだんその人について、そういう過去があったことは忘れている。その人は身内かもしれないし、遊びに来た親しい友人かもしれない。いずれにしても、作者はその人の影を見て、はっとそのことを思い出したのである。自分などとは比較にならぬ不幸な体験を経て、その人はいまここに、静かに生きている……。生き残っている。その人と直に向き合っているとわからないことを、束の間の影が雄弁に語ったということだろう。すなわち、障子一枚隔てているがゆえに、逆にその人の本当の姿がくっきりと浮かび上がったのだ。影は実体のディテールを消し去り抽象化するので、実体に接していたのではなかなか見えてこないものを、率直にクリアーに写し出す。この人は、こんなに腰が曲がっていたのか、等々。シルエット、恐るべし。さて、作者はこれから、その人と言葉をかわすのかもしれない。だとしても、いつもの調子で、何事も感じなかったように、であるだろう。『花鳥来』(1991)所収。(清水哲男)


March 1032003

 車輪繕う地のたんぽゝに頬つけて

                           寺山修司

司、十代の作。当時の彼の手にかかると、どんなに地味な日常的景観でも、たちどころに素敵なシーンに変貌してしまう。掲句の場合だと、男が馬車か荷車の下にもぐり込んで、ちょっとした車輪の不具合を応急的に繕(つくろ)っているにすぎない。昔の田舎道では、たまに見かけることのあった光景だ。この変哲もないシーンに、作者は「たんぽゝ」を咲かせ、男の「頬」をくっ「つけて」みせた。実際の男は車輪の修繕に懸命になっているわけだが、作者には修繕などは二の次で、その男が「たんぽゝに頬つけて」いることこそが重要なのだ。これで、泥臭い現実が、あっという間に心地よいそれに変換された。作者はよく「現実よりも、あるべき現実を書く」と言っていたが、そのサンプルみたいな句と言ってよい。さらには「あるべき現実」という点からすると、このシーンを丸ごと虚構と受け取っても構わないだろう。むしろ、そう読むほうが正しいのかもしれない。というのも、句の「車輪」は、どうもヘルマン・ヘッセの『車輪の下』から持ってきたような気がしてならないからだ。最近ではヘッセの国・ドイツでも読まれなくなっていると聞くが、作者の少年時代ころまでは、世界的に読まれた作品だった。車輪の下に押しつぶされていくような、青春期の柔らかい心の彷徨と挫折を描いた自伝的青春小説である。この小説を句の背景にうっすらと置いてみると、実景にこだわって読むよりも、切なくも甘酸っぱい青春性が更に深まってくる。『われに五月を』(1957)所収。(清水哲男)


March 1132003

 馬の子や汝が定型に堪へる膝

                           竹中 宏

語は「馬の子」で春。春は、仔馬の生まれる時期だ。当歳時記では「春の馬」の項目に分類しておく。テレビでしか見たことはないけれど、生まれたばかりの仔馬は、間もなく立ち上がる。立ち上がろうとして、何度もよろけながら、それでも脚を懸命に踏ん張ってひょろりと立つ。「がんばれよ」と、思わずも声をかけたくなるシーンだ。そんな情景を詠んだ句だろう。それにしても「汝(な)が定型」とは、表現様式が俳句だけに、実に素晴らしい。馬が馬らしくあるべき姿は、言われてみれば、なるほど「定型」だ。その定型を少しでも早く成立させるために、仔馬はよろめきつつも、立ち上がろうとする。立ち上がるためには「膝」でおのれを支えなければならず、みずからの重さに「堪へ」て踏ん張る健気さは、生まれてもなかなか立ち上がることをしない人間にとっては、ひどく感動的である。お釈迦様は生まれてすぐにスタスタとお歩きになったそうだが、そんな話がまことしやかに伝えられていることからしても、容易に定型には近づけない人としては、逆にひどく定型にこだわるのかもしれない。ちなみに、馬の寿命はおよそ二十五年ほどだという。つまり、馬三代の時間を人は生きる理屈だが、しからば人はいつごろ定型として立つと言ってよいのだろうか。そんなことも、ちらりと考えさせられた。俳誌「翔臨」(第46号・2003年2月28日付)所載。(清水哲男)


March 1232003

 春蒔きの種ひと揃ひ地べたに置く

                           本宮哲郎

語は「物種蒔く」で春。野菜や花の種を蒔くこと。単に「種蒔(たねまき)」というと、苗代に籾種を蒔くことだから、掲句には当てはまらない。この句は、最近の「俳句研究」(2003年3月号)で見つけた。作者の他に何人かで「春の種蒔く」を共通のテーマとして競詠したなかの一句だ。数人の句を読みすすむうちに、かつての農家の子としての意地悪い目で読んでいる自分に気がついた。これらの人々のなかで、本格的に種を蒔いたことのある人は、どの人だろうか……。むろん、ぴしゃりと言い当てられっこはないのだけれど、掲句の作者だけは本物だと思った。「地べたに置く」とあったからだ。空想だけでは、絶対に書けない言葉である。そうなのだ。種でも何でも、すべてを「地べたに置く」ことから、野の仕事ははじまっていく。公園じゃないんだから、ちょっとしたベンチなんてあるはずもない。鋤鍬などはもちろん、着るものや弁当だって、あるいは赤ん坊までをも、みんな地べたに直に置くのである。当たり前のことだけれど、その当たり前を、私は久しく忘れていた。久しぶりに、春の地べたの感触と匂いを思い出し、嬉しくなった句だ。「地べたに置く」の措辞を、しかし圧倒的なリアリティをもって受け止める読者は、もはや少ないのかもしれないが。(清水哲男)


March 1332003

 豚怒り大学校の春休

                           斎藤梅子

語として「春休」を扱っている歳時記は、意外に少ない。「夏休」「冬休」ほどには、ドラマ性がないからだろうか。学校や学生生徒が、いちばんぼおっとしているのも、春休みである。さて、掲句であるが、若い読者にはなぜ「豚」が出てくるのかは、わからないだろう。農学部あたりで飼育している豚かもしれないと思うのが、せいぜいだろう。無理もない。作者に聞いてみたわけではないけれど、私たちの世代であれば、たいていの人は「ははあん」と見当がつく。この句は間違いなく、1964年の東大の卒業式で、時の大河内一男学長が述べたはなむけの言葉の一節を踏まえている。曰く「太った豚よりも、痩せたソクラテスになれ」。その日の夕刊だったか、翌日の朝刊だったかに大きく報道され、ずいぶんと話題になったものだ。いまさら解釈の必要もないだろうが、時代は高度経済成長のトバ口にあったころで、経済優先の時代を生きていく若者たちへの、清貧を旨とする学長からの警告だった。その警告にもかかわらず……、と作者は言いたいのだ。当時の若者がこのザマでは、ダシにされた「豚」も怒って当然じゃないか。しかし当の「大学校」は、春休みなんぞに入って、のほほんと構えているばかり。作句時期は、1999年と記載されている。『八葉』(2002)所収。(清水哲男)


March 1432003

 顎紐や春の鳥居を仰ぎゐる

                           今井 聖

の「鳥居」を見上げているのは、どんな人だろう。「顎紐(あごひも)」をかけているというのだから、警官か消防隊員か、それとも自衛隊員か。あるいはオートバイにまたがった若者か、それとも遠足に来た幼稚園児だろうか。いろいろ想像してしまったが、おそらくは消防関係の人ではなかろうか。春の火災予防運動か何かで、神社に演習に来ているのだ。仕事柄、とくに高いところには気を配る癖がついている。大鳥居なのだろう。仰ぎながら梯子車がくぐれるか、神社本体への放水の邪魔にならないかなど、策を練っている。たまたま通りかかった作者には、しかし彼の頭のなかは見えないから、顎紐をかけたいかめしい様子の人が、さも感心したように鳥居を仰いでいる姿と写った。春風駘蕩。鳥居は神社の顎紐みたいなものだし(失礼)、そう思うと、両者のいかめしさはそのまま軽い可笑しみに通じてくる。余談になるが、この顎紐のかけ方にも美学があって、真面目にきちんと締めるのは野暮天に見える。戦争映画などを見ていると、二枚目は紐をだらんとぶら下げていることが多い。これが本物の戦闘だったら危険極まると思うが、その方がカッコいいのだ。そういえば、最近の消防団のなかには、顎紐つきの旧軍隊のような帽子を廃止して、野球帽スタイルのものをかぶりはじめたところもある。顎紐そのものを追放してしまったわけだが、実際の消火活動の際に、あれで大丈夫なのだろうか。『谷間の家具』(2000)所収。(清水哲男)


March 1532003

 玉丼のなるとの渦も春なれや

                           林 朋子

じめての外食生活に入った京都での学生時代。金のやりくりなどわからないから、仕送り後の数日間は食べたいものを食べ、そうしているうちに「資金」が底をついてくる。さすがにあわてて倹約をはじめ、そんなときの夕食によく食べたのが、安価な「玉丼(ぎょくどん)」だつた。「鰻玉丼」だとか「蟹玉丼」なんて、立派なものじゃない。言うならば「素玉丼」だ。丼のなかには、米と卵と薄い「なると」の切れっぱししか入っていない。丼物は嫌いじゃないけれど、毎日これだと、さすがに飽きる。掲句を読んで、当時の味まで思い出してしまった。作者の場合は、むろん玉丼のさっぱりした味を楽しんでいるのだ。「なると」の紅色の渦巻きに「春」を感じながら、上機嫌である。「なると」は、切り口が鳴門海峡の渦のような模様になっていることからの命名らしいが、名づけて妙。食べながら作者は、ふっと春の海を思ったのかもしれない。楽しい句だ。またまた余談になるが、昭和三十年代前半の京都には「カツ丼」というものが存在しなかった。高校時代、立川駅近くの並木庵という蕎麦屋が出していた「カツ丼」にいたく感激したこともあって、京都のそれはどんなものかとあちこち探してみたのだが、ついに商う店を発見できなかった。さすがに今はあるけれど、しかし少数派のようだ。なんでなんやろか。『眩草(くらら)』(2002)所収。(清水哲男)


March 1632003

 けふいちにち食べるものある、てふてふ

                           種田山頭火

頭火は有季定型を信条とした人ではないので、無季句としてもよいのだが、便宜上「てふてふ(蝶々)」で春の部に入れておく。放浪行乞の身の上で、いちばん気がかりなのは、むろん「食べるもの」だ。それが「けふ(今日)いちにち」は保証されたので、久方ぶりに心に余裕が生まれ、「てふてふ」の舞いに心を遊ばせている。好日である。解釈としてはそんなところだろうが、ファンには申し訳ないけれど、私は何句かの例外を除いて、山頭火の句が嫌いだ。ナルシシズムの権化だからである。元来、有季定型の俳句俳諧は、つまるところ世間と仲良くする文芸であり、有季と五七五の心地よい音数律とは、俗な世間との風通しをよくするための、いわばツールなのである。そのツールを、山頭火はあえて捨て去った。捨てた動機については、伝記などから推察できるような気もするし、必然性はあると思うけれど、それはそれとして、捨てた後の作句態度が気に入らない。理由を手短かに語ることは難しいが、結論的に言っておけば、有季定型を離れ俗世間を離れ、その離れた場所から見えたのは自分のことでしかなかったということだ。そんなことは、逆に俗世間の人たちが最も執心しているところではないのか。だからこそ、逆にイヤでも世間とのつながりを付けてしまう有季定型は、連綿として受け入れられてきているのではないのか。せつかく捨てたのだったら、たとえば尾崎放哉くらいに孤立するか、あるいは橋本夢道くらいには社会批判をするのか。どっちかにしてくれよ。と、苛々してしまう。まったくもって、この人の句は「分け入つても分け入つても」自己愛の「青(くさ)い山」である。『種田山頭火句集』(2002・芸林書房)他に所収。(清水哲男)


March 1732003

 山茱萸の花を電車の高速度

                           糸 大八

山茱萸
語は「山茱萸(さんしゅゆ)の花」で春。別名を「春黄金花(はるこがねばな)」と言い、黄色い小花が球状に集まって咲く。いまごろ、満開のところが多いだろう。作者は、車中の人だ。沿線に山茱萸の群生している場所を知っていて、毎年、開花を心待ちにしている。もう咲くころだと、あらかじめ方角を見定めていたら、果たして咲いていた。いきなり、黄色いかたまりが目に飛び込んできた。が、それも束の間のこと、あっという間に視界から消え去ってしまった。そこで作者は、あらためて「電車の高速度」を感じたというのである。一瞬の出来事を詠むことで、巧みに現代的な季節感を表出している。山茱萸ではないが、東京のJR中央線の東中野駅近辺の土手には、春になるとたくさんの菜の花が咲く。サラリーマン時代には毎春、これが楽しみだった。東京駅方向に乗ると左手に群生していて、数秒間、黄色のかたまりが連なって見える。土手は線路と近接しているため、まさに黄色いかたまりとしか見えない。で、かたまりが見えた後は、なんとなく車内の雰囲気が暖かくなるのだった。桜が咲くと、今度は右側の市ケ谷あたりの土手に目をやることになる。こちらは線路から距離があるので、咲いている様子がよくわかる。それどころか、土手に寝そべっている人たちの姿までもが、よく見えるのだ。最近はめったに電車には乗らないけれど、こういう句を読むと、衝動的に乗ってみたくなる。「俳句研究」(2002年6月号)所載。山茱萸の写真は、群馬大学社会情報学部・青木繁伸氏撮影。(清水哲男)


March 1832003

 四人家族の二人は子ども野に遊ぶ

                           大串 章

語は「野に遊ぶ(野遊び)」で春。これからの季節、近所の井の頭公園あたりでは、こんな家族連れのピクニック姿をよく見かけるようになる。若い両親と幼い子どもたち。「四人家族」ならば、たいていは「二人は子ども」だ。当たり前の話だけれど、あらためてこうして文字にしたり、口に出してみると、家族という単位がくっきりと浮かび上がってくる。浮かび上がると、「そういえば、我が家もそうだった。こんな時期もあったなあ」と、見ず知らずの四人家族にシンパシーを感じてしまう。通りすがりの単なる点景が、ぐんと身近なものになる。ここらへんが俳句の妙で、詠まれている当たり前のことが、当たり前以上のことをささやきはじめるのだ。私のところも四人家族。ご多分に漏れず、子どもたちが小さかったころには、「野遊び」なんて高尚なものではなかったが、あちこちとよく出かけてたっけ。その子どもの小さいほうが、きのう、人並みの袴姿で卒業した。なんだか知らないけれど、ついに「ジ・エンド」という感じである。もはや、家族四人で出かけることもないだろうな。まことに遅きに失した感慨だが、掲句に接して、そんなよしなしごとまで思ってしまった。この若い家族に、幸あれ。俳誌「百鳥」(2001年4月号)所載。(清水哲男)


March 1932003

 揚雲雀二本松少年隊ありき

                           川崎展宏

語は「揚雲雀(あげひばり)」で春。鳴きながら、雲雀がどこまでも真っすぐに上がっていく。のどかな雰囲気のなかで、作者はかつてこの地(現在の福島県二本松市)に戦争(戊辰戦争)があり、子どもたちまでもが戦って死んだ史実を思っている。この種の明暗の対比は、俳句ではよく見られる手法だ。掲句の場合は「明」を天に舞い上がる雲雀とすることで、死んだ子どもらの魂が共に昇華していくようにとの祈りに重ね合わせている。戊辰戦争での「少年隊」といえば、会津の「白虎隊」がよく知られているが、彼らの死は自刃によるものであった。対して「二本松少年隊」は、戦って死んだ。戦死である。いずれにしても悲劇には違いないけれど、二本松の場合には、十二、三歳の子どもまでが何人も加わっていたので、より以上のやりきれなさが残る。鳥羽伏見で勝利を収めた薩長の新政府軍は、東北へ進撃。奥羽越列藩同盟に名前を連ねた二本松藩も、当然迎え撃つことになるわけだが、もはや城を守ろうにも兵力がなかった。それまでに東北各地の戦線の応援のために、主力を出すことを余儀なくされていたからだ。そこで藩は、城下に残っていた十二歳から十七歳の志願した少年六十余名を集めて、対抗させたのである。まさに、大人と子どもの戦いだった。戦闘は、わずか二時間ほどで決着がついたと言われている。『観音』(1982)所収。(清水哲男)


March 2032003

 ぼろぼろの芹摘んでくるたましひたち

                           飯島晴子

語は「芹(せり)」で春。正直に言って、私には掲句はよくわからない。しかし、わからないとは言うものの、そこらへんにポイッとは捨てられない気になる響きを持った句だ。何故だろうかと、自分自身に聞いてみる。俳句を読んでいると、ときどきこんなことが起きる。捨てられないのは、どうやら「ぼろぼろの芹」と「たましひ」との取りあわせのせいらしい。「たましひ」は、生者のそれでもよいのだが、この場合は死者の魂だろうと、しばらく考えてから、勝手に結論づけてみた。生者が「ぼろぼろの芹」を摘んだのでは、どうしようもない。いや、生者ならば決して摘むことはない、見向きもせぬ「ぼろぼろの芹」だ。それを、死者があえて摘んだのである。死者ゆえに、もう食べることもないのだから、とにかく摘んできただけなのだ。摘んできたのは、生きていたころと同じようにして、死んでいたいからである。すなわち、死んでも死にきれない者たちの「たましひ」が、春風に誘われて川辺に出て、そこで摘んでいる生者と同じように摘んでみたかったのだ。それだけだ。でも、ちゃんと生者のために新鮮な芹は残しておいて、あえてぼろぼろなところだけを選んで摘んできた。しかも、生きていた時とまったく同じ摘み方で、上機嫌で……。なんと楽しげな哀しい世界だろう。でも、飯島さん。きっと間違ってますね、私の解釈は……。開戦前夜、私はとても変である。誰も、こんなアホな戦争で、死ぬんじゃないぞ。『蕨手』(1972)所収。(清水哲男)


March 2132003

 春深む一期不惑にとどかざり

                           廣瀬直人

書に「武田勝頼」とある。勝頼(1546-1582)は武田信玄の四男であったが、父を継いだ。戦国時代の血みどろの抗争のなかで、ついに生き残れなかった武将の一人だ。実録とはみなせないが、武田研究のバイブルと言われる江戸期に出た『甲陽軍鑑』に、勝頼最後の様子が書かれている。「左に土屋殿弓を持って射給ふに、敵多勢故か無の矢一ツもなし。中に勝頼公白き御手のごひにて鉢巻をなされ、前後御太刀打也。土屋殿矢尽きて刀をぬかんとせらるる時、敵槍六本にてつきかくる。勝頼公土屋を不憫に思召候や、走寄給ひ左の御手にて槍をかなぐり六人ながら切り伏せ給ふ。勝頼公へ槍を三本つきかけ、しかも御のどへ一本、御脇の下へ二本つきこみ、押しふせまいらせて御頚を取候」。無惨としか言いようがないが、これが「戦争」である。作者は「春深む」終焉の地にあって、武将の生涯にあらためて思いを致し、彼が「不惑(四十歳)」にもとどかずに死んだ事実に呆然としている。勝頼に感情移入して可哀相だとか、逆に愚かだなどと思うのではなく、ただ呆然としている作者の姿が、「春深む」の季語から浮かび上がってくる。濃密な春の空気のなかに、ひとり勝頼の生涯ばかりではなく、人の「一期(いちご)」を思う心が溶け込んでいくのである。『矢竹』(2002)所収。(清水哲男)


March 2232003

 蝌蚪生れて月のさざなみ広げたる

                           峯尾文世

語は「蝌蚪(かと)」で春。蝌も蚪も杓のかたちをした生き物で、蛙の幼生の「オタマジャクシ」のことを言う。さて、いきなり余談になるが、井の頭自然文化園の分園の水生物館で、その名も「水辺の幼稚園」という展示がはじまった。オタマジャクシやメダカ、とんぼの幼虫・ヤゴなどを見ることができる。「水辺の幼稚園」とは楽しいネーミングだけれど、ああ、こうした生き物も、ついに入場料を払って見る時代になったのかと、ちょっと悲しい気分だ。それも、動物園の象や犀などと同じように、本来の環境とは切り離された姿でしか見ることはできないのである。利点は一点、自然環境のなかにいるときよりも格段によく見えることだ。そういうふうに作られた施設だから、それはそれとしても、格段によく見えることで、かえって見えなくなってしまう部分もまた、格段に大きいだろう。たとえば、掲句のような見事に美しい光景は、この種の施設で見ることはできない。春満月の夜、月を写した水面にかすかな「さざなみ」が立っている。これはきっと、いま次から次へと生れている「蝌蚪」たちが立てているのであり、水輪を少しずつ「広げ」ているのだと、作者は想像したのだった。あくまでも想像であり、現実に「蝌蚪」が見えているわけではないけれど、しかしこの想像の目は、やはりちゃんと見ていることになるのだ。「やはり野におけレンゲソウ」。こんなことわざまで思い出してしまった。『微香性(HONOKA)』(2002)所収。(清水哲男)


March 2332003

 はこべ挿す模型の小鳥慰めて

                           堀口星眠

語は「はこべ(繁縷)」で春。春の七草の一つとして知られる。が、案外、具体的に名前と実物が一致しない人は多いようだ。そんじょそこらに沢山自生しているにもかかわらず、皮肉なことに、かえってきちんと名前を覚えられない宿命にある草だ。それはともかく、はこべは小鳥の好物だそうである。それを知っている作者は、淋しそうに見えた「模型の小鳥」に、本物の餌を与えてやった。本物の鳥として扱ってやった。なんという優しい心遣いだろうか。この句を読む読者のすべてが、作者の優しさに共感し微笑するだろう。なぜならば、読者自身にもそうした優しさがあり、思い当たるところがあるからだと思う。掲句の世界は、ここですぐれて叙情的に完結する。しかしながら……と、私はすぐに余計なことを考える。悪癖だ。句は完結しても、これからの作者はもとより、読者の人生もまたしばらくは完結しない。完結しないから、掲句の優しさを持つすべての人が、すべて優しい気持ちを保ちながら生きていくわけではない。保とうとしても、そうはいかない外圧を受ける場合もあるだろうし、みずからの野望で優しさを崩す場合もあるだろう。いや、こんなに大袈裟に言うこともない。日ごろの私の心情を、さっとなぞってみるだけで十分だ。永遠の優しさは神のみに固有のものであり、その神を造ったのは他ならぬ人間である。だから、ときどき人は神に憧れて、神よりもよほど非合理的に優しくふるまったりもするのだろう。「俳句研究」(2003年4月号)所載。(清水哲男)


March 2432003

 種痘日の教師を淡く記憶せり

                           藤田湘子

語は「種痘(しゅとう)」で春。天然痘にかかるのを防ぐための予防接種だ。生後一年以内、小学校入学前六か月以内、同卒業前六か月以内の接種が、法律によって義務づけられていた。揚句の「種痘日」は、入学を間近にした接種日だろう。会場の教室には医者や看護婦とは別に、当然もうクラス分けも決まっている頃なので、それぞれ担任の「教師」も立ちあっていたはずだ。つまり、生まれてはじめてセンセイなる存在を身近にする機会だったのだから、感受性の強い子には印象深い日であったにちがいない。具体的にはよく覚えていなくても、センセイの雰囲気などは「淡く記憶」している。懐かしくも、もどかしい遠い春の日の記憶である。私は鈍感なのか、六年生のときの記憶もない。が、この句に接して、入学前後の他のことは、やはりかすかながら思い出させてもらった。天然痘の根絶をWHOが宣言したのは、1980年。その四年前から、日本では副反応が問題化して、法律は生きていたけれど、事実上の接種は中止されている。したがって、新しい歳時記には「種痘」の項目はない。また、種痘の跡は二の腕に残るから、いくら若ぶっても、腕を見られたらおしまいですぞ(笑)。『黒』(1987)所収。(清水哲男)


March 2532003

 風光る白一丈の岩田帯

                           福田甲子雄

語は「風光る」で春。「岩田帯」は、妊娠した女性が胎児の保護のために腹に巻く白い布のこと。一般に、五ヶ月目の戌の日(犬の安産にあやかるため)に着ける。命名の由来は「斎肌帯」からとか、現在の京都府八幡市岩田に残る伝説からとか、諸説がある。心地よい春風のなかを、お祝いの真っ白な岩田帯が届けられたのだろう。新しい生命の誕生を待ちわびる作者の喜びが、真っすぐに伝わってくる。「白一丈(正確には七尺五寸三分)」とすっぱりと言い切って、喜びの気持ちのなかに厳粛さがあることを示している。純白の帯が、目に見えるようだ。ところで掲句の解釈とは無関係だが、だいぶ以前の余白句会で「風光る」が兼題に出たことがある。句歴僅少の谷川俊太郎さんが開口一番、「なんだか恥ずかしくなっちゃうような季語だねえ」と言った。一瞬、私は何のことかわからなかったが、考えてみればそうなのである。たとえば「風光る」と詩に書くとすると、かなり恥ずかしい。散文でも、同様だ。きざっぽくて、鼻持ちならない。逆に、ひどく幼稚な表現になってしまう場合もあるだろう。となると、俳句を詠まない人が、たまたま「風光る」の句を読んだとすれば、相当な違和感を覚えるはずである。俳人なら別になんとも思わないことが、そうでない人には奇異に写る……。こういう目で見ていくと、恥ずかしくなるような季語は他にもありそうだ。俳句が本当の意味での大衆性を獲得できない原因の一つは、ここらへんにもあるのだろう。『白根山麓』(1982)所収。(清水哲男)


March 2632003

 春の灯に口を開けたる指狐

                           牧野桂一

の燈火には、明るくはなやいだ感じがある。「指狐(ゆびきつね)」は子供の遊びで、人差指と小指を立て、残りの三本の指で物をつまむようにして影絵にすると、狐の形になる。ふと思いついて、作者はたわむれに壁に写してみた。大の男の影絵遊びだ。いろいろとアングルなどを変えたりしているうちに、すっと狐の口を開けてみた。まさか「コン」とは鳴きはしないが、何か物言いたげな狐がそこにいて、しばらく見つめていたと言うのである。いま実際に私も写してみたら、子供のときの印象とは違って、「口を開けたる指狐」の風情は、ひどく孤独で淋しげだ。光源がはなやいだ「春の灯」であるだけに、余計にそう感じるのだろう。子供のころの我が家はランプ生活だったので、当然光源は微妙にゆらめくランプの灯であり、影絵だけは電灯よりもランプの炎のほうが幻想的で面白かったなあ。けっこう熱中していたことを、思い出した。しかし、狐のほかに今でも作れるのは、両手を使って作る犬の顔くらいのものだ。あとは、何の形を作ったのかも忘れてしまった。でも、考えてみれば、影絵は生れてはじめて興味を抱いた映像である。いまだにシンプルで淡い「かたち」に惹かれるのも、あるいは当時の影絵の影響かもしれない。「俳句界」(2003年4月号)所載。(清水哲男)


March 2732003

 春荒や封書は二十四グラム

                           櫂未知子

語は「春荒(はるあれ)」。春の強風、突風を言う。春疾風(はるはやて)に分類。静と動の対比は、俳句の得意とするところだ。句の出来は、対比の妙にかかってくる。あまりに突飛な物同士の対比では句意が不明瞭となるし、付きすぎては面白くない。そこらへんの案配が、なかなかに難しいのだ。その点、掲句にはほどよい配慮がなされていると読めた。これから手紙を出しに行く外は、春の嵐だ。少し長い手紙を書いたのだろう。封をして手に持ってみると、かなり重い。80円切手では、料金不足になるかもしれない。そこで、計ってみた。私も持っているが、郵便料金を調べるための小さな計量器がある。慎重に乗せてみると、針は「二十四グラム」を指した。ちなみに定型封書は、25グラムまでの料金が80円である。リミットすれすれの重さだったわけだが、表の吹き放題に荒れている風に対比して、なんという細やかな情景だろうか。すれすれの重さだったので、作者は何度か計り直したことだろう。日常的な行為と現象の、なんの衒いも感じさせない対比であるだけに、読者には格別な「発見」とは思えないかもしれないが、なかなかどうして、これはたいした「発見」だと思った。頭だけでは書けない句だとも……。「俳句」(2003年4月号)所載。(清水哲男)


March 2832003

 弟と日暮れを立てば鐘霞む

                           柴崎七重

語は「霞(かすみ)」で春。「霞」は明るい間のみに使い、夜になると「朧(おぼろ)」である。「立つ」には一瞬戸惑ったが、たたずむのではなく、「出立」の「立つ」であり「発つ」の意だろう。成人した姉と弟。この二人がいっしょに旅立つなどは、めったにないことだ。小津安二郎の『東京暮色』ではないが、葬儀か法事のために、久しぶりに故郷で顔を合わせた。が、どちらも仕事を持っているので、そうそうゆっくりとしてもいられない。帰る方向は途中まで同じだから、いっしょの汽車に乗ろうという話になり、そそくさと出発した。そんな状況が想像される。二人とも、懐かしい故郷にいささか後ろ髪を引かれる思いで帰りかけたところに、これまた懐かしい寺の鐘が響いてきた。折りしも、春の夕暮れだ。それでなくとも感傷的な気分になっているところに、思いがけない追い打ちの鐘の音である。それもぼおっと霞んだように聞こえるのは、もとより作者の心が濡れているからである。幼かったころのあれこれが偲ばれ、今度はいつ来られるだろうかなど、口にこそ出さないけれど、二人の思いは同じである。ただ黙々と歩いている。物語性に味わいのある句だ。ただ、変なことを口走るようだが、二人の関係が姉と弟であるがゆえに、句になったということはあるだろう。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


March 2932003

 嫁入りを見に出はらつて家のどか

                           富田木歩

正五年(1916年)の作。べつに結婚式や披露宴に招かれていなくても、「嫁入り」となると、みんなで「見に」出かけた時代。戦後しばらくまでは、そんな時代がつづいた。私も、子供のころに「見に」行った記憶がある。作者もまた見に行きたかったのだが、歩くことができなかったので、やむなく「家」に残っている。隣近所の人たちも、みんな「出はらつて」いるから、昼間だというのにヤケに静かなのだ。めったにない静けさのなかで、ひとり「のどか」さを満喫している。とろとろと、眠気を誘われるのも心地よい。現代とは違って、昔の人が「家」でひとりきりになるなどは、そうはなかったことだろう。年寄りがいたり小さな子供や赤ん坊がいたりと、いつもどこかに人の姿や声があった。むろん、個室なんて洒落たものはない。さて、そのうちに見に行った連中が戻ってくる。「どんなだったか」と、もちろん作者は聞いただろう。聞かれるまでもなく話ははじまり、中身は例外なく品定めだ。「嫁」当人の印象はもとより、仕度の適当不適当や招待客の多寡にいたるまで、いや、そのかまびすしいこと。さきほどまでの静けさが嘘のようである。考えてみれば、昔のお嫁さんは大変だった。ガチガチの地域共同体に異分子として入っていくわけだから、溶け込むまでには相当の時間がかかっただろう。家のうちでも外でも、常に監視の目が光っていた。「あそこの嫁は働き者だ」。こう言われるようになって、はじめて共同体は少し扉を開けてくれるのだった。小沢信男編『松倉米吉・富田木歩・鶴彬』(2002・EDI叢書)所収。(清水哲男)


March 3032003

 春北風楽聖の絵のひとならび

                           須佐薫子

句で「春北風」とあれば「はるきた」と読むのが普通なのですが、掲句は「はるきたかぜ」と普通に読ませています。ああ、ややこしい(笑)。春疾風のひとつ。春の風といえば南風が普通だろうと思うのは素人で(失礼)、北風もごく普通によく吹いています。何年も天気概況を放送してきた私が言うのですから、嘘ではありません。それはともかく、句の情感はよくわかりますね。春休みの学校の様子でしょうか。あるいは普通の休日の音楽教室なのかもしれませんが、何かの用事でひとり教室に入ったのでしょう。外は春の嵐ですから窓を開けるわけにもいかず、普通の日ならにぎやかな教室も、しいんと静まり返っています。ピアノの蓋はしめられており、ガランとした室内を見渡していると、自然に目に入ってくるのは壁に貼られた「楽聖のひとならび」の肖像画です。普通の音楽の時間であれば、あまり気にも止めない彼らの顔が、いやにリアルに迫ってくる感じ……。私は小中学校を六回転校しましたが、どの学校の音楽室にも、ベートーベンやモーツアルトの同じ複製の肖像画が、普通に掲示されていました。あれはいったい、いかなる教育的根拠にもとづいていたのでしょうか。顔と音楽って、そんなに深い関係があるのかしらん。なかで私が何故か気になっていた一枚は、「魔笛」を作曲しているモーツアルトの姿でした。つまり、晩年の肖像ですね。苦悩する楽聖の背後にはオペラの一情景が描かれていて、いやにおどろおどろしく、一目見た誰でもが、モーツアルトを嫌いになっても普通だというような代物でした。あの暗い絵のせいで、クラシックはどれほど近未来のファンを失ったことでしょうか。「魔笛」は、しごく普通の感覚からすると、こんな作品です。「あらすじだけ見れば史上最低のハチャメチャ作品。モーツァルトの他の作品と違って、大衆劇場の興行師であるシカネーダーが自分の劇団のために作ってもらったもので、もちろん台本もオリジナル。団員が、何人かよってたかって台本を作ったためか、途中で善者と悪者の大逆転なんか朝飯前、ストーリーの矛盾点をつつけば、本が一冊できるくらいひどいものです」*。あの苦悩する肖像の意味を、教室に掲示した先生がたはご存知だったのでしょうか。……とは、つまらない皮肉です。ごめんなさい。「俳句」(2003年4月号)所載。(清水哲男)

[「春北風」の読みについて ] 読者より、メールをいただきました。「ハルナライと読ませるのだと思います。ナライは関東で冬の季節風をいうとして、春北風にハルナライ(ヒ)とルビがあり見出し語になっています。最新俳句歳時記・春(山本健吉編・文藝春秋)」。K.Y.様。ありがとうございました。私が定本としている角川版歳時記には載っていませんが、その他の歳時記でも確認されました。またまた私のミステイクですが、自戒のため、このままにしておきます。


March 3132003

 背のびして羽ふるはせてうぐひすの

                           瀧井孝作

者が、東京・八王子の自宅で飼っていた「うぐひす」を観察して得た句だという。「俳句は、見て見て見抜いて写生するもの」と言った人だけに、なるほど、見て見て見抜いている。全身の力を使って鳴いている健気さが、よく伝わってくる。だから、あんなに小さくても、よく透る声が出るのだ。その点、人間はどうだろうか。と、句は何も言っていないけれど、そんな問い掛けをされた気持ちになる句でもあるだろう。赤ん坊のころこそ全身を使って泣いたりはしても、成長するにしたがって、口先で物を言うことを覚えてしまう。どこか、うさんくさい存在に仕上がっていく。仕方のないこととはいえ、だからこそ私たちは逆に、たとえば句のウグイスのような欲も得もない全身的純粋表現に憧れるのだろう。下五の「うぐひすの」と流した押さえ方が、目を引く。これは句を、ここで完結させないための技法だと読める。つまり、「うぐひすの」は上五の「背のびして」に、おのずから循環していく。いつまでも、句をくるくると回しておく仕掛けなのだ。鳥籠のなかのウグイスの健気さや愛らしさを、いっそう読者に強く印象づけるためのテクニックだと言うべきか。なお、現在ではウグイスを簡単に飼育することはできない。メジロ、ウグイス、オオルリ、シジュウカラなどの小鳥や一定の動物は「鳥獣保護及狩猟ニ関スル法律」により、環境庁長官又は都道府県知事の捕獲の許可がなければ、捕獲できない鳥獣とされているからだ。また、許可を得て捕獲した鳥獣も、都道府県知事の飼養(飼育)の許可がなければ飼養できないことになっている。『浮寝鳥』(1943)所収。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます