イギリス抜きは失言だったようだがスペインはどうなのか。戦力外扱いとしか思えない。




2003ソスN3ソスソス13ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 1332003

 豚怒り大学校の春休

                           斎藤梅子

語として「春休」を扱っている歳時記は、意外に少ない。「夏休」「冬休」ほどには、ドラマ性がないからだろうか。学校や学生生徒が、いちばんぼおっとしているのも、春休みである。さて、掲句であるが、若い読者にはなぜ「豚」が出てくるのかは、わからないだろう。農学部あたりで飼育している豚かもしれないと思うのが、せいぜいだろう。無理もない。作者に聞いてみたわけではないけれど、私たちの世代であれば、たいていの人は「ははあん」と見当がつく。この句は間違いなく、1964年の東大の卒業式で、時の大河内一男学長が述べたはなむけの言葉の一節を踏まえている。曰く「太った豚よりも、痩せたソクラテスになれ」。その日の夕刊だったか、翌日の朝刊だったかに大きく報道され、ずいぶんと話題になったものだ。いまさら解釈の必要もないだろうが、時代は高度経済成長のトバ口にあったころで、経済優先の時代を生きていく若者たちへの、清貧を旨とする学長からの警告だった。その警告にもかかわらず……、と作者は言いたいのだ。当時の若者がこのザマでは、ダシにされた「豚」も怒って当然じゃないか。しかし当の「大学校」は、春休みなんぞに入って、のほほんと構えているばかり。作句時期は、1999年と記載されている。『八葉』(2002)所収。(清水哲男)


March 1232003

 春蒔きの種ひと揃ひ地べたに置く

                           本宮哲郎

語は「物種蒔く」で春。野菜や花の種を蒔くこと。単に「種蒔(たねまき)」というと、苗代に籾種を蒔くことだから、掲句には当てはまらない。この句は、最近の「俳句研究」(2003年3月号)で見つけた。作者の他に何人かで「春の種蒔く」を共通のテーマとして競詠したなかの一句だ。数人の句を読みすすむうちに、かつての農家の子としての意地悪い目で読んでいる自分に気がついた。これらの人々のなかで、本格的に種を蒔いたことのある人は、どの人だろうか……。むろん、ぴしゃりと言い当てられっこはないのだけれど、掲句の作者だけは本物だと思った。「地べたに置く」とあったからだ。空想だけでは、絶対に書けない言葉である。そうなのだ。種でも何でも、すべてを「地べたに置く」ことから、野の仕事ははじまっていく。公園じゃないんだから、ちょっとしたベンチなんてあるはずもない。鋤鍬などはもちろん、着るものや弁当だって、あるいは赤ん坊までをも、みんな地べたに直に置くのである。当たり前のことだけれど、その当たり前を、私は久しく忘れていた。久しぶりに、春の地べたの感触と匂いを思い出し、嬉しくなった句だ。「地べたに置く」の措辞を、しかし圧倒的なリアリティをもって受け止める読者は、もはや少ないのかもしれないが。(清水哲男)


March 1132003

 馬の子や汝が定型に堪へる膝

                           竹中 宏

語は「馬の子」で春。春は、仔馬の生まれる時期だ。当歳時記では「春の馬」の項目に分類しておく。テレビでしか見たことはないけれど、生まれたばかりの仔馬は、間もなく立ち上がる。立ち上がろうとして、何度もよろけながら、それでも脚を懸命に踏ん張ってひょろりと立つ。「がんばれよ」と、思わずも声をかけたくなるシーンだ。そんな情景を詠んだ句だろう。それにしても「汝(な)が定型」とは、表現様式が俳句だけに、実に素晴らしい。馬が馬らしくあるべき姿は、言われてみれば、なるほど「定型」だ。その定型を少しでも早く成立させるために、仔馬はよろめきつつも、立ち上がろうとする。立ち上がるためには「膝」でおのれを支えなければならず、みずからの重さに「堪へ」て踏ん張る健気さは、生まれてもなかなか立ち上がることをしない人間にとっては、ひどく感動的である。お釈迦様は生まれてすぐにスタスタとお歩きになったそうだが、そんな話がまことしやかに伝えられていることからしても、容易に定型には近づけない人としては、逆にひどく定型にこだわるのかもしれない。ちなみに、馬の寿命はおよそ二十五年ほどだという。つまり、馬三代の時間を人は生きる理屈だが、しからば人はいつごろ定型として立つと言ってよいのだろうか。そんなことも、ちらりと考えさせられた。俳誌「翔臨」(第46号・2003年2月28日付)所載。(清水哲男)




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