なぜ松井の首の「寝違え」までを大きく報道するのだ。狂ってるね、ジャーナリズムは。




2003ソスN3ソスソス14ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 1432003

 顎紐や春の鳥居を仰ぎゐる

                           今井 聖

の「鳥居」を見上げているのは、どんな人だろう。「顎紐(あごひも)」をかけているというのだから、警官か消防隊員か、それとも自衛隊員か。あるいはオートバイにまたがった若者か、それとも遠足に来た幼稚園児だろうか。いろいろ想像してしまったが、おそらくは消防関係の人ではなかろうか。春の火災予防運動か何かで、神社に演習に来ているのだ。仕事柄、とくに高いところには気を配る癖がついている。大鳥居なのだろう。仰ぎながら梯子車がくぐれるか、神社本体への放水の邪魔にならないかなど、策を練っている。たまたま通りかかった作者には、しかし彼の頭のなかは見えないから、顎紐をかけたいかめしい様子の人が、さも感心したように鳥居を仰いでいる姿と写った。春風駘蕩。鳥居は神社の顎紐みたいなものだし(失礼)、そう思うと、両者のいかめしさはそのまま軽い可笑しみに通じてくる。余談になるが、この顎紐のかけ方にも美学があって、真面目にきちんと締めるのは野暮天に見える。戦争映画などを見ていると、二枚目は紐をだらんとぶら下げていることが多い。これが本物の戦闘だったら危険極まると思うが、その方がカッコいいのだ。そういえば、最近の消防団のなかには、顎紐つきの旧軍隊のような帽子を廃止して、野球帽スタイルのものをかぶりはじめたところもある。顎紐そのものを追放してしまったわけだが、実際の消火活動の際に、あれで大丈夫なのだろうか。『谷間の家具』(2000)所収。(清水哲男)


March 1332003

 豚怒り大学校の春休

                           斎藤梅子

語として「春休」を扱っている歳時記は、意外に少ない。「夏休」「冬休」ほどには、ドラマ性がないからだろうか。学校や学生生徒が、いちばんぼおっとしているのも、春休みである。さて、掲句であるが、若い読者にはなぜ「豚」が出てくるのかは、わからないだろう。農学部あたりで飼育している豚かもしれないと思うのが、せいぜいだろう。無理もない。作者に聞いてみたわけではないけれど、私たちの世代であれば、たいていの人は「ははあん」と見当がつく。この句は間違いなく、1964年の東大の卒業式で、時の大河内一男学長が述べたはなむけの言葉の一節を踏まえている。曰く「太った豚よりも、痩せたソクラテスになれ」。その日の夕刊だったか、翌日の朝刊だったかに大きく報道され、ずいぶんと話題になったものだ。いまさら解釈の必要もないだろうが、時代は高度経済成長のトバ口にあったころで、経済優先の時代を生きていく若者たちへの、清貧を旨とする学長からの警告だった。その警告にもかかわらず……、と作者は言いたいのだ。当時の若者がこのザマでは、ダシにされた「豚」も怒って当然じゃないか。しかし当の「大学校」は、春休みなんぞに入って、のほほんと構えているばかり。作句時期は、1999年と記載されている。『八葉』(2002)所収。(清水哲男)


March 1232003

 春蒔きの種ひと揃ひ地べたに置く

                           本宮哲郎

語は「物種蒔く」で春。野菜や花の種を蒔くこと。単に「種蒔(たねまき)」というと、苗代に籾種を蒔くことだから、掲句には当てはまらない。この句は、最近の「俳句研究」(2003年3月号)で見つけた。作者の他に何人かで「春の種蒔く」を共通のテーマとして競詠したなかの一句だ。数人の句を読みすすむうちに、かつての農家の子としての意地悪い目で読んでいる自分に気がついた。これらの人々のなかで、本格的に種を蒔いたことのある人は、どの人だろうか……。むろん、ぴしゃりと言い当てられっこはないのだけれど、掲句の作者だけは本物だと思った。「地べたに置く」とあったからだ。空想だけでは、絶対に書けない言葉である。そうなのだ。種でも何でも、すべてを「地べたに置く」ことから、野の仕事ははじまっていく。公園じゃないんだから、ちょっとしたベンチなんてあるはずもない。鋤鍬などはもちろん、着るものや弁当だって、あるいは赤ん坊までをも、みんな地べたに直に置くのである。当たり前のことだけれど、その当たり前を、私は久しく忘れていた。久しぶりに、春の地べたの感触と匂いを思い出し、嬉しくなった句だ。「地べたに置く」の措辞を、しかし圧倒的なリアリティをもって受け止める読者は、もはや少ないのかもしれないが。(清水哲男)




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