一週間の番組のなかで、いちばん忙しいのが金曜日。それも、今日でおしまいだ。




2003ソスN3ソスソス28ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 2832003

 弟と日暮れを立てば鐘霞む

                           柴崎七重

語は「霞(かすみ)」で春。「霞」は明るい間のみに使い、夜になると「朧(おぼろ)」である。「立つ」には一瞬戸惑ったが、たたずむのではなく、「出立」の「立つ」であり「発つ」の意だろう。成人した姉と弟。この二人がいっしょに旅立つなどは、めったにないことだ。小津安二郎の『東京暮色』ではないが、葬儀か法事のために、久しぶりに故郷で顔を合わせた。が、どちらも仕事を持っているので、そうそうゆっくりとしてもいられない。帰る方向は途中まで同じだから、いっしょの汽車に乗ろうという話になり、そそくさと出発した。そんな状況が想像される。二人とも、懐かしい故郷にいささか後ろ髪を引かれる思いで帰りかけたところに、これまた懐かしい寺の鐘が響いてきた。折りしも、春の夕暮れだ。それでなくとも感傷的な気分になっているところに、思いがけない追い打ちの鐘の音である。それもぼおっと霞んだように聞こえるのは、もとより作者の心が濡れているからである。幼かったころのあれこれが偲ばれ、今度はいつ来られるだろうかなど、口にこそ出さないけれど、二人の思いは同じである。ただ黙々と歩いている。物語性に味わいのある句だ。ただ、変なことを口走るようだが、二人の関係が姉と弟であるがゆえに、句になったということはあるだろう。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


March 2732003

 春荒や封書は二十四グラム

                           櫂未知子

語は「春荒(はるあれ)」。春の強風、突風を言う。春疾風(はるはやて)に分類。静と動の対比は、俳句の得意とするところだ。句の出来は、対比の妙にかかってくる。あまりに突飛な物同士の対比では句意が不明瞭となるし、付きすぎては面白くない。そこらへんの案配が、なかなかに難しいのだ。その点、掲句にはほどよい配慮がなされていると読めた。これから手紙を出しに行く外は、春の嵐だ。少し長い手紙を書いたのだろう。封をして手に持ってみると、かなり重い。80円切手では、料金不足になるかもしれない。そこで、計ってみた。私も持っているが、郵便料金を調べるための小さな計量器がある。慎重に乗せてみると、針は「二十四グラム」を指した。ちなみに定型封書は、25グラムまでの料金が80円である。リミットすれすれの重さだったわけだが、表の吹き放題に荒れている風に対比して、なんという細やかな情景だろうか。すれすれの重さだったので、作者は何度か計り直したことだろう。日常的な行為と現象の、なんの衒いも感じさせない対比であるだけに、読者には格別な「発見」とは思えないかもしれないが、なかなかどうして、これはたいした「発見」だと思った。頭だけでは書けない句だとも……。「俳句」(2003年4月号)所載。(清水哲男)


March 2632003

 春の灯に口を開けたる指狐

                           牧野桂一

の燈火には、明るくはなやいだ感じがある。「指狐(ゆびきつね)」は子供の遊びで、人差指と小指を立て、残りの三本の指で物をつまむようにして影絵にすると、狐の形になる。ふと思いついて、作者はたわむれに壁に写してみた。大の男の影絵遊びだ。いろいろとアングルなどを変えたりしているうちに、すっと狐の口を開けてみた。まさか「コン」とは鳴きはしないが、何か物言いたげな狐がそこにいて、しばらく見つめていたと言うのである。いま実際に私も写してみたら、子供のときの印象とは違って、「口を開けたる指狐」の風情は、ひどく孤独で淋しげだ。光源がはなやいだ「春の灯」であるだけに、余計にそう感じるのだろう。子供のころの我が家はランプ生活だったので、当然光源は微妙にゆらめくランプの灯であり、影絵だけは電灯よりもランプの炎のほうが幻想的で面白かったなあ。けっこう熱中していたことを、思い出した。しかし、狐のほかに今でも作れるのは、両手を使って作る犬の顔くらいのものだ。あとは、何の形を作ったのかも忘れてしまった。でも、考えてみれば、影絵は生れてはじめて興味を抱いた映像である。いまだにシンプルで淡い「かたち」に惹かれるのも、あるいは当時の影絵の影響かもしれない。「俳句界」(2003年4月号)所載。(清水哲男)




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