さあ、ヒマになった。まずは平日の昼下がりの街を歩きたい。小さな夢の実現です。




2003ソスN4ソスソス1ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 0142003

 ハーモニカ白布に包み渡り漁夫

                           山本 源

ハーモニカ
語は「渡り漁夫(「やんしゅう」とも)」で春。ニシンの漁期になると、東北地方の農民が出稼ぎに、ぞくぞくと北海道へ渡った。海の季節労働者だ。いまでは、ニシン漁もすっかり衰退してしまったという。が、「渡り漁夫携帯電話夜な夜なの」(菊池志乃)という句があることからすると、出稼ぎの人がいなくなったわけではないようだ。掲句は、まだ携帯電話などがなかったころの作。淋しさをまぎらわすための「ハーモニカ」を、その人は「白布に」包んでいる。どんなに大切にしている楽器かが、よくわかる。白布を解いて取りだすとき、吹き終わって包むときの仕草までが、目に浮かぶ。律義で真面目な人柄なのだ。その人の吹いた曲は、童謡だろうか、歌謡曲だろうか。きっと、とても哀切な響きを漂わせたことだろう。それでなくとも、ハーモニカの音色には哀愁がある。比較的安価な楽器ではあるけれど、安価だけでは人気を得ることはできない。やはり、日本人のウエットな心情にぴたりとくる音色が出るから、一時の流行もあったわけだ。掲句は、その人が吹いている情景を詠まずして、吹いている情景や心情も伝えているのであり、さらにはこの小さな楽器の持つ魅力の源泉も伝えている。ちなみに、図版は現在3800円で市販されているごく普通の21穴式。ひさしぶりに、吹いてみたくなった。私の扱える楽器は、ハーモニカしかない。『新日本大歳時記・春』(2000・講談社)所載。(清水哲男)


March 3132003

 背のびして羽ふるはせてうぐひすの

                           瀧井孝作

者が、東京・八王子の自宅で飼っていた「うぐひす」を観察して得た句だという。「俳句は、見て見て見抜いて写生するもの」と言った人だけに、なるほど、見て見て見抜いている。全身の力を使って鳴いている健気さが、よく伝わってくる。だから、あんなに小さくても、よく透る声が出るのだ。その点、人間はどうだろうか。と、句は何も言っていないけれど、そんな問い掛けをされた気持ちになる句でもあるだろう。赤ん坊のころこそ全身を使って泣いたりはしても、成長するにしたがって、口先で物を言うことを覚えてしまう。どこか、うさんくさい存在に仕上がっていく。仕方のないこととはいえ、だからこそ私たちは逆に、たとえば句のウグイスのような欲も得もない全身的純粋表現に憧れるのだろう。下五の「うぐひすの」と流した押さえ方が、目を引く。これは句を、ここで完結させないための技法だと読める。つまり、「うぐひすの」は上五の「背のびして」に、おのずから循環していく。いつまでも、句をくるくると回しておく仕掛けなのだ。鳥籠のなかのウグイスの健気さや愛らしさを、いっそう読者に強く印象づけるためのテクニックだと言うべきか。なお、現在ではウグイスを簡単に飼育することはできない。メジロ、ウグイス、オオルリ、シジュウカラなどの小鳥や一定の動物は「鳥獣保護及狩猟ニ関スル法律」により、環境庁長官又は都道府県知事の捕獲の許可がなければ、捕獲できない鳥獣とされているからだ。また、許可を得て捕獲した鳥獣も、都道府県知事の飼養(飼育)の許可がなければ飼養できないことになっている。『浮寝鳥』(1943)所収。(清水哲男)


March 3032003

 春北風楽聖の絵のひとならび

                           須佐薫子

句で「春北風」とあれば「はるきた」と読むのが普通なのですが、掲句は「はるきたかぜ」と普通に読ませています。ああ、ややこしい(笑)。春疾風のひとつ。春の風といえば南風が普通だろうと思うのは素人で(失礼)、北風もごく普通によく吹いています。何年も天気概況を放送してきた私が言うのですから、嘘ではありません。それはともかく、句の情感はよくわかりますね。春休みの学校の様子でしょうか。あるいは普通の休日の音楽教室なのかもしれませんが、何かの用事でひとり教室に入ったのでしょう。外は春の嵐ですから窓を開けるわけにもいかず、普通の日ならにぎやかな教室も、しいんと静まり返っています。ピアノの蓋はしめられており、ガランとした室内を見渡していると、自然に目に入ってくるのは壁に貼られた「楽聖のひとならび」の肖像画です。普通の音楽の時間であれば、あまり気にも止めない彼らの顔が、いやにリアルに迫ってくる感じ……。私は小中学校を六回転校しましたが、どの学校の音楽室にも、ベートーベンやモーツアルトの同じ複製の肖像画が、普通に掲示されていました。あれはいったい、いかなる教育的根拠にもとづいていたのでしょうか。顔と音楽って、そんなに深い関係があるのかしらん。なかで私が何故か気になっていた一枚は、「魔笛」を作曲しているモーツアルトの姿でした。つまり、晩年の肖像ですね。苦悩する楽聖の背後にはオペラの一情景が描かれていて、いやにおどろおどろしく、一目見た誰でもが、モーツアルトを嫌いになっても普通だというような代物でした。あの暗い絵のせいで、クラシックはどれほど近未来のファンを失ったことでしょうか。「魔笛」は、しごく普通の感覚からすると、こんな作品です。「あらすじだけ見れば史上最低のハチャメチャ作品。モーツァルトの他の作品と違って、大衆劇場の興行師であるシカネーダーが自分の劇団のために作ってもらったもので、もちろん台本もオリジナル。団員が、何人かよってたかって台本を作ったためか、途中で善者と悪者の大逆転なんか朝飯前、ストーリーの矛盾点をつつけば、本が一冊できるくらいひどいものです」*。あの苦悩する肖像の意味を、教室に掲示した先生がたはご存知だったのでしょうか。……とは、つまらない皮肉です。ごめんなさい。「俳句」(2003年4月号)所載。(清水哲男)

[「春北風」の読みについて ] 読者より、メールをいただきました。「ハルナライと読ませるのだと思います。ナライは関東で冬の季節風をいうとして、春北風にハルナライ(ヒ)とルビがあり見出し語になっています。最新俳句歳時記・春(山本健吉編・文藝春秋)」。K.Y.様。ありがとうございました。私が定本としている角川版歳時記には載っていませんが、その他の歳時記でも確認されました。またまた私のミステイクですが、自戒のため、このままにしておきます。




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