2003N4句

April 0142003

 ハーモニカ白布に包み渡り漁夫

                           山本 源

ハーモニカ
語は「渡り漁夫(「やんしゅう」とも)」で春。ニシンの漁期になると、東北地方の農民が出稼ぎに、ぞくぞくと北海道へ渡った。海の季節労働者だ。いまでは、ニシン漁もすっかり衰退してしまったという。が、「渡り漁夫携帯電話夜な夜なの」(菊池志乃)という句があることからすると、出稼ぎの人がいなくなったわけではないようだ。掲句は、まだ携帯電話などがなかったころの作。淋しさをまぎらわすための「ハーモニカ」を、その人は「白布に」包んでいる。どんなに大切にしている楽器かが、よくわかる。白布を解いて取りだすとき、吹き終わって包むときの仕草までが、目に浮かぶ。律義で真面目な人柄なのだ。その人の吹いた曲は、童謡だろうか、歌謡曲だろうか。きっと、とても哀切な響きを漂わせたことだろう。それでなくとも、ハーモニカの音色には哀愁がある。比較的安価な楽器ではあるけれど、安価だけでは人気を得ることはできない。やはり、日本人のウエットな心情にぴたりとくる音色が出るから、一時の流行もあったわけだ。掲句は、その人が吹いている情景を詠まずして、吹いている情景や心情も伝えているのであり、さらにはこの小さな楽器の持つ魅力の源泉も伝えている。ちなみに、図版は現在3800円で市販されているごく普通の21穴式。ひさしぶりに、吹いてみたくなった。私の扱える楽器は、ハーモニカしかない。『新日本大歳時記・春』(2000・講談社)所載。(清水哲男)


April 0242003

 百年のグリコ快走さくら咲く

                           泉田秋硯

京の桜は、この週末にかけてが見ごろ。ついこのあいだ咲きはじめたかと思ったら、あっという間に満開になってしまった。掲句は、桜前線がぐんぐん北上してくる速さを、「グリコ」のランナーのスピードに例えていて愉快。稚気、愛すべし。ただし「百年」はちょいとオーバーで、グリコの歴史は八十年ほど(1922年発売)であるが、ま、とにかく桜前線もグリコの青年も、昔から速いことになっているから、これでいいのだ。ところで、江崎グリコのHPを見ていたら、有名なコピー「一粒三百メートル」の解説が載っていた。「グリコ(キャラメル)には、実際に一粒で300メートル走ることのできるエネルギーが含まれています。グリコ一粒は15.4kcalです。身長165cm、体重55kgの人が分速160mで走ると、1分間に使うエネルギーは8.21kcalになります。つまりグリコ一粒で1.88分、約300m走れることになります」。「なるほどねえ」と感心するにはトシをとりすぎてしまったけれど、ポパイのほうれん草とは違って、甘いものを健康に結びつけて商売にするのは大変だっただろう。そこで「エネルギー」の補給に気がついたのは、まことに炯眼と言うべきで、それこそ百年の昔から、いまだに私たちは「エネルギー」を求めて四苦八苦、右往左往、国家的には戦争までしでかしている始末だ。『鳥への進化』(2003)所収。(清水哲男)


April 0342003

 花冷の百人町といふところ

                           草間時彦

古屋などにも「百人町」の地名はあるが、前書に「俳句文学館成る」とあるから、東京は新宿区の百人町だ。JR山手線と中央線に挟まれた一帯で、新宿から電車で二分ほど。戦前は、戸山ケ原と呼ばれていた淋しい場所だったという。町名の由来は、寛永年間に幕府鉄砲百人組が近辺に居住していたことから。その名のとおり百人を一組とする鉄砲隊で、江戸には四組あり、この町には伊賀組の同心屋敷があった。さて、現代の百人町を詠むのはたいへんに難しい。というのも、あまりにも雑然とした構造の町だからである。町を象徴するような建物やモニュメントもなければ、とりたてた名産品があるわけでもない。俳句愛好者なら、それこそ俳句文学館を思い浮かべるかもしれないけれど、地元の人の大半は、何のための建物なのかも知らないのではあるまいか。要するに、つかみどころがないのである。掲句は、そんなつかみどころのなさを、そのまま句にしている。「百人町といふところ」は、どんなところなのか。それは、読者におまかせだと言っている。だから逆に「花冷(え)」という漠然たる情趣には、似合う町だと言えようか。「花冷(え)」の「花」はむろん桜だが、この町には実は「つつじ」の花のほうが多い。百人組の給料は安く、彼らは遊んでいる土地を分け合って、内職に「つつじ」を栽培したのだという。その名残が、いまだに残っているというわけだ。ちなみに、俳句文学館の創立は1976年(昭和五十一年)。作者は俳人協会事務局長として、設立運動に専従で奔走した。『朝粥』(1979)所収。(清水哲男)


April 0442003

 山国を一日出でず春の雲

                           小島 健

くせくと働いた職場を離れてみると、見えてくることがたくさんある。あながち、年齢のせいだけではないと思われる。正直なところ、今はなんだか小学生のころに戻ったような気分なのだ。世間知らずで、好奇心のみ旺盛だったあの時代と、さほど変わらない自分が、まず見えてきた。大人になってからは、いっぱし世間を知ったような顔をして生きてきたが、そうしなければ生きられなかっただけの話で、そう簡単に世間なんてわかるはずもない。そんな心持ちで俳句を読んでいると、いままでならなかなか食指が動かなかったような句が、妙に味わい深く感じられる。掲句もその一つで、このゆったりした時間感覚表現を、素直に凄いなあと思う。あくせくとしていた間は、こうした時間の感じ方は皆無と言ってよく、したがって「呑気な句だな」くらいにしか思えなかったろう。作者については、句集の著者略歴に書かれている以外のことは何も知らない。私より、若干年下の方である。私が感銘を受けたのは、こうした時間感覚を日常感覚として十分に身につけておられるからこそ、句が成ったというところだ。付け焼き刃の時間感覚では、絶対にこのようには詠めません。小学生時代を山国に暮らした私には、実感的にも郷愁的にも、まことにリアリティのある佳作だと写った。寝ころんで、雲を見ているのが好きな子供だったことを思い出す。『木の実』(2002)所収。(清水哲男)


April 0542003

 逃水に死んでお詫びをすると言ふ

                           吉田汀史

語は「逃水(にげみず)」で春。草原などで遠くに水があるように見え、近づくと逃げてしまう幻の水[広辞苑第五版]。ときに舗装道路などでも見られる現象で、蜃気楼の一種だという。掲句を読んですぐに思い出したのは、敗戦時、天皇陛下に「死んでお詫びを」した人たちのことだ。敗戦は我々の力が足らなかったためだと自分を責めて、自刃を遂げた。あれから半世紀以上が経過した今、彼らの死を無駄であったと評価するのは容易い。「逃水」のような幻的存在に、最高の忠誠心を発揮したことになるのだから……だ。戦時中の私はまだ幼くて、空襲の煙に逃げ惑い機銃掃射におびえたくらいの体験しかないけれど、すでに祖国愛みたいな感情は芽生えていて、皇居前の自刃の噂にしいんとした気持ちになったことを思い出す。少なくとも、無駄な死などとは感じなかった。そうなのだ。人はたとえ幻にでも、状況や条件の如何によっては、忠誠を誓うことはできるのだ。ここで、かつての企業戦士を思ってもよいだろう。掲句は、そうした人のことを「と言ふ」と客観視している。しかし、冷たく馬鹿な奴めがと言っているのではない。むしろ、その人の心持ちに同調している。同調しながらも、他方で人間の不思議や不気味を思っている句だと、私には読める。作者が句を書いたのは、イラクの戦争がはじまる前のことだし、戦争のことを詠んでいるのかどうかもわからない。つまり直接今度の戦争には関係ないのだけれど、いまの時点で読むと、こんな具合に読めてしまう。最近の戦争報道でも、やたらと「忠誠」という言葉が出てくる。俳誌「航標」(2003年4月号)所載。(清水哲男)


April 0642003

 直立の夜越しの怒り桜の木

                           鈴木六林男

ほどの「怒り」だ。一晩中、怒りの感情がおさまらない。それほどの怒りでありながら、怒りの主は夜を越して「直立」していなければならない。なぜならば、怒っているのは、直立を宿命づけられている「桜の木」だからだ。そして、この木の怒りはついに誰にもわからないのだし、花が散れば振りむく者すらいなくなってしまう。桜の木と日本人との関係について「五日の溺愛、三百六十日の無視」と言った人がいる。至言である。ところで、掲句を文字通りに解しても差し支えはないのだが、作者の従軍戦闘体験からして、桜の木を兵士と読み替えても、とんでもない誤読ということにはならないだろう。たとえば「夜越し」の歩哨などに、思いが至る。理不尽な命令に怒りで身を震わせながらも、一晩中直立していなければならない兵士の姿……。まさに桜の木と同様に、彼の内面は決して表に出ることはないのだと読める。それが兵士の宿命なのだ。こう読むと、たとえ諺的に「花は桜木、人は武士」などと如何にもてはやされようとも、実体はかくのごとしと、それこそ作者自身の怒りが、ようやくじわりと表に現れてくる。余談ながら、諺の「花は桜木……」は、歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』の十段目から来ている。天河屋義平の義の厚さに感じ入った武士たる由良之助が、一介の商人の前に平伏して「花は桜木、人は武士と申せども、いっかな武士も及ばぬ御所存」と言うのである。『鈴木六林男句集』(2002・芸林書房)所収。(清水哲男)


April 0742003

 寂しきは鉄腕アトム我指すとき

                           清水哲男

アトム
うとう「鉄腕アトム」の誕生日が来てしまった。半世紀前に雑誌「少年」でアトムの未来の誕生日に立ちあったときには、とんでもない先の話だと思っていた。まず生きてはいられないと思ったのに、今日、こうしてその日を迎えている。とりあえず、めでたいことには違いない。アトムが誌面に誕生したときには、漫画は悪だった。教育の害になるというのが、世間の常識だった。だから、私(たち)はいわば隠れて熱中した。むろん、作者には憧れた。それが、どうだろう、今の変わりようは。マスコミはもてはやし、企業は一儲けを企み、みんながアトムにすり寄っている。なにしろ「正義の味方」なんだから、どのようにすり寄ろうとも、どこからも文句は出ないもんね。でも、初期のいくつかの作品を除いて、私はアトムが好きじゃない。手塚治虫の私的なアトムは、いつしか作者にもどうにもならない公的な存在に変わっていったからだ。それに連れて、アトムの正義も極めて薄っぺらな公的正義に陥ってしまっている。この公的正義ゆえに、現今のマスコミや企業も乗りやすいのだ。むろん手塚も気づいていて、ヤケ気味に書いたことがある。「ぼくはアトムをぼく自身最大の駄作の一つとみているし、あれは名声欲と、金儲けの為に書いているのだ」(「話の特集」1966年8月号)。当時の本音であり、深く寂しい苛立ちだ。その寂しさが、どんどん格好良くなっていくアトムの外見に具現されているというのが、私の見方である。TVアニメのアトムは、しばしば格好よく指をさす。何かの行動を決断したときだ。その決断の根拠は、しかし公的な正義にもとづくもので、アトムの(いや手塚の)心からのものではない。だから、指さす表情はとても悲しげであり、寂しく写る。「週刊現代」の取材で、一度だけお会いしたことがある。憧れの漫画家はまことに多忙で、インタビューは事務所から車の中、車の中から喫茶店へと移動しながらだつた。喫茶店で話していると、何人かの女子高生がサインをねだりに割り込んできた。話を中断した漫画家は、彼女らの紙切れやノートに実にていねいに署名し、一人が通学用のズックのカバンを差し出すと「ホントにいいの」と言ってから、マジックインキで五分くらいもかけて「リボンの騎士」を描き上げたのだった。私も便乗しようかと思ったのだが、止めにした。あまりにも、彼は疲れているように見えた。『匙洗う人』(1991)所収。(清水哲男)

[ おまけ ]現在、JR高田馬場駅で流れている発車ベルにはアトムの主題曲が使われています。お聞き下さい。22秒、動画はありません。要QuickTime。


April 0842003

 山ざくら曾て男は火の瞳持ち

                           櫛原希伊子

のはしくれとしては、面目まるつぶれと頭を垂れるしかない句だ。前書に「『山行かば草生す屍』の歌ありて」とあるから、「曾て(かつて)」とは、大伴家持が「海行かば水漬く屍山行かば草生す屍大皇の辺にこそ死なめ顧みはせじ」と詠んだ万葉の時代だ。微妙な言い方になるが、そのことの中身の現代的な解釈はともかくとして、「男とはかくあるべし」と多くの男も女もが思い信じていた時代があった。「山ざくら」との取り合わせの必然性は、本居宣長の「しきしまの大和心を人とはば朝日に匂ふ山桜花」にある。まことに清冽な気概を持った男たちの瞳(め)は、一朝事あらば、たしかに火と燃えたであろう。その炎の色は、花ではなくて葉のそれである。深読みしておけば、山桜の花は女で葉が男だ。だから、女の介入する余地のない武士道にはソメイヨシノが適い、男の道には女とともにあるヤマザクラが似付かわしいと言うべきか。さて、それに引き換えいまどきの男どもときたら……などと、これ以上言うのはヤボである。大伴家持の歌は、第二次世界大戦の際に、戦死者を悼み顕彰する歌として大いに喧伝された。軍国主義者には、格別「大皇の辺にこそ死なめ」のフレーズが気に入ったからだろう。しかし、その気に入り方は歌の本意からは、はるかに遠いものだった。というのも「曾て」の「大皇(おおきみ)」は、いつも戦いの最前線にいたのだからだ。後方の安全地帯で指揮を取るなんてことは、やらなかった。大皇が実際に身近にいて、ともに戦ったからこその「辺にこそ死なめ」であったことを、軍国主義者は都合よく精神的な意味に曲解歪曲したのである。あるいは単に、読解力が不足していたのかもしれないけれど。『きつねのかみそり』(2002)所収。(清水哲男)


April 0942003

 乙鳥や赤い暖簾の松坂屋

                           夏目漱石

松坂屋
語は「乙鳥(つばくろ・つばくら・燕)」で春。東京にも、そろそろ渡ってくるころだろう。句は1986年(明治二十九年)に詠まれたもの。東京上野広小路にあって、まだ百貨店ではなく呉服屋だったときの「松坂屋」だ。図版からわかるように、大きな「暖簾(のれん)」を連ねてかけた和風の建物だった。店の前を鉄道馬車が通っていることからも、当時より繁華街に位置していたことが知れる。ただ「赤い暖簾」とあるけれど、まさか赤旗のような真紅ではなくて、そこは老舗の呉服屋らしく、渋い赤茶色(柿色)だった。昔の商家の暖簾は、たいていが紺地に白抜き文字のものだったというから、かなり派手に見えたに違いない。そんな暖簾が春風を受けて揺れているところに、ツイーンツイーンと低空で乙鳥が飛び交っている。いかにも晴朗闊達なスケッチで、気持ちのよい句だ。句の字面も座りがよく、いかにもどっしりとした松坂屋の構えも彷彿としてくる。漱石先生、よほど上機嫌だったのだろう。この建物が洋館に変わったのは、1917年(大正六年)のことで、設計者は漱石の義弟にあたる鈴木禎次であった。しかし、漱石はこの新建築を見ることなく、前年に没している。享年四十九。『漱石俳句集』(1990・岩波文庫)所収。(清水哲男)


April 1042003

 げんげ田や花咲く前の深みどり

                           五十崎古郷

語は「げんげ田」で春。「春田(はるた)」に分類。昔の田植え前の田圃には、一面に「げんげ(紫雲英)」を咲かせたものだった。鋤き込んで、肥料にするためである。いつしか見られなくなったのは、もっと効率の良い肥料が開発されたためだろう。これからの花咲く時期も見事だったが、掲句のように、「花咲く前の深みどり」はビロードの絨毯を敷き詰めたようだった。それがずうっと遠くの山の端にまで広がっているのだから、壮観だ。もう一度、見てみたい。句は単に自然の色合いをスケッチしたようにも写るけれど、そうではなくて、紫雲英の「深みどり」には、胎生している生命力が詠み込まれているのだ。むせるように深い、その色合い……。春夏秋冬、折々の自然の色合いは刻々と変化し、常に生命についての何事かを私たちに告げている。連れて、私たちの感受の心も刻々と動いていく。知らず知らずのうちに、私たちもまた、自然の一部であることを知ることになる。やがて紫雲英の花が咲きだすと、子供だった私たちにですら、圧倒的な自然の生命力がじわりと感じられるのだった。「げんげ田の風がまるごと校庭に」(小川軽舟)。校庭で遊ぶ私たちへの心地よい風は、農繁期の間近いことを告げてもいた。もうすぐ、遊べなくなるのだ。子供が、みんな働いていた時代があった。『五十崎古郷句集』(1937)所収。(清水哲男)


April 1142003

 花吹雪うしろの正面だれもゐず

                           中嶋憲武

るときは、本当に吹雪のように散る。見事なものだ。作者はひとり「花吹雪」のなかにいて、いささかの感傷に浸っている。思い返すと、子供のころには、いつも「うしろの正面」に誰かがいたものだが、いつしか誰もいなくなってしまった。実際に誰かがいたというよりも、両親など、頼もしい誰かの存在を感じながら生きていたのに、その存在が消えてしまった。ひとりぼっち。そんな寂寥感が、激しい落花に囲まれて迫ってくる。苦くもあり、しかしどこか甘酸っぱくもある心情の吐露と言うべきか。というのも、単に背後と言わず、わざわざ「うしろの正面」と、子供の遊び「かごめかごめ」の歌詞の文句を借用しているからだ。このことで、句には楽しかった幼時追想の色合いが濃く滲み出た。「かごめかごめ、籠のなかの鳥は、いついつ出やる/夜明けの晩に、鶴と亀がすべった/うしろの正面だあれ?」。私はこう覚えているが、地方によって多少の異同があるようだ。あらためて眺めてみると、この歌の意味はよくわからない。ただ「夜明けの晩」と「うしろの正面」という矛盾した表現から推して、そうした矛盾を面白がる発想から作られたものだろう。「八十歳の婆さんが九十五歳の孫連れて……」なんて戯れ歌もあったけれど、そんな歌と同じ発想だ。つまりナンセンスソングなのだから、意味を求めても、そのこと自体がナンセンスな試みになってしまう。しかし、子供のころには、誰もが意味不明だということを少しも疑問に思わずに歌っていた。歌にかぎらず、さしたる疑問など持たずに生きていられたのは、むろん「うしろの正面」に安心できる誰かがいてくれたおかげなのである。『炎環・新季語選』(2003)所載。(清水哲男)


April 1242003

 襞の外すぐに曠き世八重桜

                           竹中 宏

語は「八重桜」。サトザクラの八重咲き品種の総称で、ソメイヨシノ」などの「桜」とは別項目に分類する。桜のうちでは、開花が最も遅い。東京あたりでは、そろそろ満開だろうか。近くに樹がないので、よくはわからない。ぶつちゃけた話が、掲句の大意は「井の中の蛙大海を知らず」に通じている。見事に美しく咲いた八重桜だが、込み入った花の「襞(ひだ)」のせいで、内側からは外の世界が見えないのだ。すぐ外には「曠(ひろ)き世」が展開しているというのに、まことに口惜しいことであるよと、作者は慨嘆している。慨嘆しながらも、作者は花に向かって「お〜い」と呼びかけてやりたい気持ちになっている。「井の中の蛙」よりもよほど世に近いところ、それこそ皮膜の間に位置しながら、何も知らずに散ってしまうのかと思えば、美しい花だけに、ますます口惜しさが募ってくる。といって断わっておくが、むろん作者は諺を作ろうとしたわけではない。だから、この八重桜をたとえば美人などの比喩として考えたのではない。あるがまま、感じたままの作句である。昔から八重桜の句は数多く詠まれてきたが、このように花の構造を念頭に置いた句には、なかなかお目にかかれない。その構造にこそ、八重桜の大きな特長があるというのに、不思議といえば不思議なことである。俳誌「翔臨」(第43号・2002年2月刊)所載。(清水哲男)


April 1342003

 「大和」よりヨモツヒラサカスミレサク

                           川崎展宏

書に「戦艦大和(忌日・四月七日) 一句」とある。「大和」はかつての大戦の末期に、沖縄沖の特攻作戦で沈没した世界海軍史上最大の戦艦だった。このときに、第二艦隊司令長官伊藤整一中将、大和艦長有賀幸作大佐以下乗組員2489人が艦と運命をともにした。生存者は276人。米軍側にしてみれば、赤子の手をひねるような戦闘だったと言われる。掲句は、最後の時が迫ったことを自覚した戦艦より打電された電文の形をとっている。「ヨモツヒラサカ(黄泉平坂)」は、現世と黄泉(よみ)の境界にあるとされる坂のことだ。これ以上、解説解釈の必要はないだろう。しかし、この哀切極まる美しい追悼句に、同時代感覚をもって向き合うことのできる人々は、いまこの国にどれほどおられるのだろうか。また、生き残りのひとり吉田満が一晩で一気呵成に書き上げたという『戦艦大和ノ最期』は、いまなお読み継がれているようだが、若い読者はどんな感想を抱くのだろう。とりわけて、哨戒長・臼淵大尉の次の言葉などに……。「進歩ノナイ者ハ決シテ勝タナイ。負ケテ目覚メルコトガ最上ノ道ダ。日本ハ進歩トイウコトヲ軽ンジ過ギタ。私的ナ潔癖ヤ徳義ニコダワッテ、真ノ進歩ヲ忘レテイタ。敗レテ目覚メル、ソレ以外ニドウシテ日本ガ救ワレルカ。俺達ハソノ先駆ケトナルノダ」。『義仲』(1978)所収。(清水哲男)


April 1442003

 棚霞キリンの頸も骨七つ

                           星野恒彦

語は「棚霞(たながすみ)」で春。横に筋を引いたように棚引く霞とキリンの長い首。縦横の長い取り合わせが、まず面白い。句の註に「哺乳類の頸骨はみな七個」とあって、実は私はこれを知らなかった。知らないと「頸(くび)も」の「も」がわからない。そうか、あんなに長い首にも、人間の首と同じように「七つ」の骨しかないのかと思うと、なんだか妙な感じがする。逆に、人間の首に七つも骨があるのかと首筋を触って見たくなる。そんな感じで、作者は何度かキリンを見上げたのだろう。おあつらえ向きに、七つの骨の部分の背景に七つの筋を引いて、霞が棚引いている。と解釈してしまうと、かなりオーバーだけど(笑)。でも、詠まれた環境の理想的な状態は、そのようであればそれに越したことはないのである。あらためて調べてみたら、キリンの身長は肩高3.6メートル、頭頂高5〜5.5メートルほどである。体重ときたら、雄で800〜900キロ、雌で550キロ程度だという。これくらいデカいと、世の中の見え方も相当に違うのだろう。この句は上野動物園で詠まれているが、自慢じゃないが、東京に住みながら、私は一度も入園したことがない。この記録は、もったいなくて破る気がしない。そんなわけで、よくキリンを見たのは、大学時代の大阪は天王寺動物園でだった。そのころは長い首のことよりも、よくもまああんなに涎(よだれ)が垂れるものよと、いつも感心してたっけ。キリンの寿命は20年ほど。だとしたら、もうあのキリンはいない計算になる。『麥秋』(1992)所収。(清水哲男)


April 1542003

 山吹や川よりあがる雫かな

                           斯波園女

語は「山吹」で春。東京では、いまが盛りだ。園女(そのめ)は江戸期の人、蕉門。前書に「六田渡(むだのわたし)」とあるから、奈良の吉野川下流域での句である。さて、この句はちょっと分かりにくい。ふつう「渡」というと、誰もが渡し舟を想像するだろう。「舟が出るぞ〜」の、あれである。しかし、渡し舟の「雫(しずく)」が「川よりあがる」図には無理がある。では、何の雫だろうか。急流なので、岩を噛んだ水が飛び散り、雫となって岸辺に「あが」っている図だろうか。でも、それならわざわざ前書をつけることもない。正解は「馬」である。万葉集に「馬並めてみ吉野川を見まく欲りうち越え来てぞ瀧に遊びつる」の歌も見えるように、大昔から川は馬でも渡っていた。雫の主が馬と分かると、句の情景はたちまち鮮かに浮かびあがってくる。川瀬を勢いよく渡ってきた馬が岸にあがり、びしょ濡れの胴体から飛び散る雫が、折しも満開の黄金色の山吹にざあっとかかった情景だ。まことに力強くダイナミックな詠みぷりで、春光に輝く周辺の景色までもが彷彿としてくるではないか。この句は、与謝蕪村編、千代尼序、田女跋という豪華メンバーによるアンソロジー『玉藻集』(1774年・安永三年刊)に収載されている。(清水哲男)


April 1642003

 葉桜の下何食はぬ顔をして

                           大倉郁子

はあん、何かやらかしましたね、何日か前の花見の席で……。調子に乗って飲み過ぎて、小間物屋を開いちゃった(←これ、わからない人はわからないほうがいいです)のかもしれない。実際はなんだかわからないけれど、とにかく失態を演じてしまったのだろう。それが、花が散って葉桜になり、風景も一変してしまったので、そこを通りかかっても「何食はぬ顔」をしていられる。「ああ、よかった」。もしも、桜の花期がずいぶんと長かったら、こうはいかない。そこを通るたびに、やらかしたことを思い出しては、自己嫌悪に陥るのは必定だ。酒を飲みはじめたころに、私も一大失態をやらかしたことがある。運の悪いことには、桜の下ではなくて、友人宅の部屋の中でだった。桜はすぐに散るけれど、友人の家はいつまでも同じ形で残っているので厄介だ。前を通るたんびに、表面的には何食はぬ顔をしているつもりでも、そのことを思い出さされて自己嫌悪に陥るので、三度に一度は回り道をしたほどだった。だから、句の作者の気持ちはよくわかるつもりだ。背景や光景や環境が変わりさえすれば、以前の失敗が絵空事のように思える。そういうことは、人生には多い。一見軽い句だけれど、この軽さに、読者それぞれの苦い風袋(ふうたい)がプラスされると、そんなに軽い感じを持たずに受け止める人も結構いるのではなかろうか。『対岸の花』(2002)所収。(清水哲男)


April 1742003

 人類の歩むさみしさつちふるを

                           小川双々子

語は「つちふる」で春。「霾」というややこしい漢字をあてるが、原義的には「土降る」だろう。一般的には、気象用語で用いられる「黄砂(こうさ)」のことを言う。こいつがやって来ると、空は黄褐色になり、太陽は明るい光を失う。その下を歩けば、はてしない原野を行くような錯覚に陥るほどだ。そしていま、作者もその原野にあって歩いている。そしてまた、作者には「つちふる」なかを歩く人の姿が、個々の人間ではなくて「人類」に見えている。類としての人間。その観念的な存在が、眼前に具体となって現れているのである。下うつむいておろおろと、よろよろと歩く姿に、人類の根源的な「さみしさ」を感じ取ったのだ。太古からの人類の歩みとは、しょせんかくのごとくに「さみしい」ものであったのだと……。「人類愛」などと言ったりはするけれど、普段の私たちは類としての存在など、すっかり忘れて生きている。一人で生きているような顔をしている。が、黄砂だとか大雪だとか、はたまた地震であるとか、そうした人間の力ではどうにもならぬ天変地異に遭遇すると、たちまち自分が類的存在であることを思い知らされるようである。その意味で、掲句は「人類」と言葉は大きいが、実感句であり写生句なのだ。名句だと思う。愚劣な戦争を傍観しているしかなかった私の心には、ことさらに沁み入ってくる。『異韻稿』(1997)所収。(清水哲男)


April 1842003

 チューリップ喜びだけを持つてゐる

                           細見綾子

語「チューリップ」に名句なし。そう思っている。日本人好みの微妙な陰影が感じられない花だからだ。造花に近い感じがする。掲句は、そんなチューリップの特長を逆手に取っている。自註に曰く。「春咲く花はみな明るいけれども、中でもチューリップは明るい。少しも陰影を伴わない。喜びだけを持っている。そういう姿である。人間世界では喜びは深い陰影を背負うことが多くて、谷間の稀れな日ざしのようなものだと私は考えているのだが、チューリップはちがう。曽て暗さを知らないものである。喜びそのもの、露わにもそうである。私はこの花が咲くと、胸襟を開く思いがする。わが陰影の中にチューリップの喜びが灯る」。折しも、我が家の近くにある小学校のチューリップが満開だ。保育園や幼稚園にも、この花が多く植えられるのは、まだ人生の翳りを知らない子供たちによく似合うからだろうか。そう言えば、高校や大学ではあまり見かけない花だ。ところで、大人である掲句の作者はチューリップに「胸襟を開く思いがする」と述べている。ということは、むろん日ごろの心は鬱屈しているというわけだ。花そのものに陰影がないからこそ、花と作者との間に陰影が生まれた。名句とは思わないが、この着眼は捨てがたい。『桃は八重』(1942)所収。(清水哲男)


April 1942003

 桑の香にいとこ同志の哀しさよ

                           中北綾子

語は「桑」で春。「同志」は「同士」の誤記だろう。句の背景には、養蚕が盛んだった頃の農村風景がある。二人して桑を摘んでいるのか、あるいは桑畑の近くを歩いているのか。相手の「いとこ」は異性である。小さい頃には何の屈託もない遊び仲間だったけれど、異性であることを意識しはじめると、何かにつけてぎごちなくなってくる。口数も減ってくる。相手に好意を抱いているのだから、なおさらだ。そんな気持ちを「哀しさよ」と言いとめた。「悲しさ」と「愛しさ」が入り交じった、なんとも甘酸っぱい空間が広がってくる句だ。これも、美しい青春の一齣である。この句を読んでふっと思い出したのが、クロード・シャブロルの映画『LES COUSINS』(1959)だった。こちらは男同士で、パリに住むぐうたら学生(ジャン=クロード・ブリアリ)のところに、純情で勉強家の従兄弟(ジェラール・ブラン)が、田舎から頼って出てくるという設定だ。この正反対の性格の二人に一人の女(ジュリエット・メニエル)がからみ、やがて悲劇的な結末を迎えることになる。学生時代に見て感動し、めったに買わないパンフレットまで買ったので、よく覚えている。血の濃さゆえに、二人の反発しあう気持ちも強い。「従兄弟の味は鴨の味」と言うけれど、ひとたび反目しあったら、他人同士の関係では考えられないほどに、すさまじいことになる。血の繋がっていることの哀しさを、迫力満点に描いた傑作だった。『現代俳句歳時記』(1989・千曲秀版社)所載。(清水哲男)


April 2042003

 朧夜のポストに手首まで入るる

                           村上喜代子

語は「朧夜(おぼろよ)」で春。朧月夜の略である。実際、数日前に、私も同じ体験をした。朧夜だからといって、べつに平常心を失っているとも思わなかったけれど、投函するときになんだか急に手元が頼りなく思え、ぐうっとポストに「手首まで」入れて、確かに投函したことを確認したのだった。届かないと相手に迷惑のかかりそうな郵便物だっただけに、慎重を期したというところだが、普段だとすとんと入れて平気でいるのに、これはやっぱり朧夜のせいだったのかしらん。暖かくて妙に気分が良いと、かえって人は普段よりも慎重になるときがあるのかもしれない。このように郵便物だと手応えを確かめられるが、昨今のファクシミリやメールだと、こうはいかないので不安になることがある。本当に届くのだろうか。ふと疑ってしまうと、確認のしようもないので苛々する。とくにファクシミリは、相手の手元に手紙のように物理的具体的に送信内容が届くはずなので、逆に心配の度合が強いのだ。メールならば泡と消えても、もともとが泡みたいな通信手段だから、仕方ないとあきらめがつく。でも、プロセスはともかくとして、ファクシミリは限りなく手紙に近い状態でのやりとりだ。書留で出すわけにもいかないし、届いたかどうかを、あらためて電話で確認することもしばしばである(苦笑)。『つくづくし』(2001)所収。(清水哲男)


April 2142003

 永き日や石ぬけ落る愛宕山

                           湯本希杖

語は「永き日(日永)」で春。暦の上で最も日の長いのは夏至のころだが、春は日の短い冬を体験した後だけに、日永の心持ちが強い季節だ。さて、この「愛宕山(あたごやま)」はどこの山だろうか。愛宕山と名前のつく山は全国に散在している。作者は江戸期信州の人だから、いまの軽井沢駅から見える愛宕山かもしれないが、判然としない。とにかく、その山を削って作った道に、高いところから「石」が「ぬけ落」ちてくる情景だ。といっても、そんなにたいそうな落石ではないだろう。ときに、ぱらっと小石や拳大ほどの石が落ちてくる程度。雪深い冬の間は、そういうことが起こらないので、「ほお」と作者は目を細めている。落石に春の日の長閑さを感じているわけだ。昔の山国の人ならではの春の味わい方である。作者の希杖は湯田中温泉の湯元で、一茶に傾倒し、一茶のために「如意の湯」という別荘まで建ててやっている。つまり、パトロンの一人であった。一茶も好んでよく滞在したようだが、ある日別荘から女中に託した希杖宛の手紙に曰く。「長々ありありしかれば此度が長のいとまごひになるかもしれず今夕ちと小ばやく一盃奉願上候」。要するに、しばらく会えなくなりそうだからと希杖を強迫(笑)して、晩酌の一本を無心しているのだ。むろん、希杖は早速酒を届けただろう。希杖は一茶よりも一つ年上だった。栗山純夫編『一茶十哲句集』(1942・信濃郷土誌出版社)所載。(清水哲男)


April 2242003

 《蝶来タレリ!》韃靼ノ兵ドヨメキヌ

                           辻貨物船

まどき「韃靼(だったん)ノ兵」と言ってもリアリティはないけれど、かつての韃靼兵(モンゴル兵)は勇猛果敢をもって天下に鳴り響いていた。いや、勇猛果敢というよりも残虐非道性で群を抜いており、ヨーロッパ人は彼らを地獄(タルタルス)からの使者とみなして怖れたという。すなわち、韃靼は「タルタル、タタール」の音訳だ。そんな怖れを知らぬ地獄の軍団が、一匹の蝶の出現にどよめいたというのである。暴力装置として徹底的に鍛え抜かれた荒くれ男どもにも、こんなに柔らかい心が残っているのだと言ってみせたところが、いかにも抒情詩人・辻征夫(俳号「貨物船」)らしい。カタカナ表記にしたのは、読者に漢文の読み下し文を想起させ、遠い歴史の一齣であることを暗示したかったのだろう。掲句は、言うまでもなく安西冬衛の次の一行詩「春」を踏まえたものだ。「てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて行つた」。このことについては、小沢信男が簡潔に書いているので引用しておく。「颯爽たる昭和モダニズムの記念塔。現代詩の辺境をひらいた先達へ、ざっと七十年をへだてて世紀末の平成から、はるかに送るエール。その挨拶のこころこそが、俳諧に通じるのではないか」。なお、この句は萩原朔太郎賞受賞記念として建てられた碑に刻まれている。朔太郎ゆかりの広瀬川河畔(前橋文学館前)に、細長く立っている。「広瀬川白く流れたり/時さればみな幻想は消えゆかん。……」(朔太郎)。『貨物船句集』(2001・書肆山田)所収。(清水哲男)


April 2342003

 春風や公衆電話待つ女

                           吉岡 実

電話ボックス
まから六十数年前、昭和初期の句。このことを念頭に置かないと、句の良さはわからない。現代の句としても通用はするけれど、あまりにありふれた光景で、面白味には欠けてしまう。写真(NTT Digital Museumより転載)は、当時の公衆電話ボックス。東京市内でも、せいぜい数十ヶ所にしかなかったようだが、明治期の赤塗り六角型のボックスよりも、はるかに洗練されたモダンなデザインだ。で、この前で待っている「女」は、流行の先端を行くモガ(モダンガール)か、あるいは良家の子女だろうか。とにかく、電話をかける行為は、普及度の低かった昔にあって、庶民には羨ましい階層に属していることの証明みたいなものだった。美人が電話をかけているというだけで人だかりができた時代もあったそうだが、それは明治大正の話としても、まだそんな雰囲気は残っていた時の句である。要するに、この句はとてもハイカラな情景を詠んでいるのだ。そよ吹く「春の風」とお嬢さんとの取り合わせは、見事にモダンに決まっていたにちがいない。作者ならずとも、通りかかった人はみな、ちらりちらりと盗み見たことだろう。吉岡実は現代を代表する詩人で、十代から俳句や短歌にも親しみ、詩に力を注いだ後半生にも、夫人によれば句集を開かなかった日はほとんどなかったという(宗田安正)。『奴草』(2003・書肆山田)所収。(清水哲男)


April 2442003

 囀りや良寛の寺手鞠売る

                           山田春生

敷市玉島にある円通寺での句だと、作者の弁にあった(「俳句」2002年10月号)。若き日の良寛が修業をした寺として知られる。近くの茶店では五色の糸でかがった美しい「手鞠(てまり)」が売っていて、折りからの鳥たちの「囀(さえず)り」と見事に明るく調和している。旅の春を満喫している句だ。良寛は子供たちと遊ぶために、いつも手鞠とおはじきを持っていたと伝えられてはいる。が、それは越後に戻ってからのことで、円通寺で鞠つきなどはしなかったろう。だから、ここの茶店で手鞠を売るのも変な話なのだが、ま、これ以上は言うだけヤボか。さて、幕が上がると、舞台ではひとり良寛が竹箒でそこらへんを掃いている。そこへ四、五人の女の子がばらばらっと登場して「良寛さん、遊ぼうよ」と口々に言う。と、すぐに箒の手を止めた良寛が「よしよし」と言いながら袂から手鞠を取りだした……。その良寛は小学四年生の私であり、女の子は同級生だった。懐しくも恥ずかしい学芸会の一齣だ。忘れたけれど、五色の手鞠などあるはずもないから、取りだしたのはゴムマリだったのだろう。むろん良寛の何たるかを知るはずもなく、先生の言うとおりに演じただけで、もう全体のストーリーも覚えていない。放課後に残されての練習のおかげで、上手くなったのはマリつきくらいだ。ところで、実は明日、その良寛の故郷を余白句会の仲間と訪ねることになっている。かつての子供良寛の目に、何が見えるのだろうか。楽しみだ。(清水哲男)


April 2542003

 春宵の外郎売の台詞かな

                           藤本美和子

舞伎を観ての句だろう。「外郎売(ウイロウうり)」は歌舞伎十八番の内で、1718年(亨保3年)森田座にて2代目市川団十郎が外郎売の物真似を雄弁に演じた事がはじまりと言われる。演じる役者には、立板に水というよりも、立板に瀧のような弁舌が要求される。中身は外郎(名古屋名産の「ウイロウ」ではなく薬の名前)を売る行商人の宣伝文句だから、かなりいい加減で怪しいのだけれど、それを承知で騙されてみる楽しさが「春宵」の気分とよくマッチする。とにかく、楽しいなあという句だ。いまではあまり上演されないようだが、この「台詞(口上)」は滑舌(かつぜつ)のトレーニング用として、役者やアナウンサーなどの訓練に、いまでもごく日常的に使われている。これを知らない芸能人や放送人は、一人もいないだろう。サワリの部分を紹介しておきますので、声に出して読んでみてください。案外と、難しいものです。「さて此の薬、第一の奇妙には、舌のまわることが銭独楽が裸足で逃げる。(中略)アカサタナハマヤラワ、オコソトノホモヨロヲ、一つへぎへぎに、へぎほしはじかみ、盆まめ、盆米、盆ごぼう、摘蓼、摘豆、摘山椒、書写山の社僧正、粉米のなまがみ、粉米のなまがみ、こん粉米のこなまがみ、繻子、ひじゅす、繻子、繻珍、親も嘉兵衛、子も嘉兵衛、親かへい子かへい、子かへい親かへい、ふる栗の木の古切口。雨合羽か、番合羽か、貴様のきゃはんも皮脚絆、我等がきゃはんも皮脚絆、しっかわ袴のしっぽころびを、三針はりなかにちょと縫うて、ぬうてちょっとぶんだせ、かわら撫子、野石竹。のら如来、のら如来、三のら如来に六のら如来。一寸先のお小仏に、おけつまずきゃるな、細溝にどじょにょろり。京の生鱈奈良なま学鰹、ちょっと四五貫目、お茶立ちょ、茶立ちょ、ちゃっと立ちょ茶立ちょ、青竹茶筅で、お茶ちゃっと立ちゃ。……」。「俳句研究」(2000年5月号)所載。(清水哲男)


April 2642003

 行く春やほろ酔ひに似る人づかれ

                           上田五千石

っかり花も散った東京では、自然はもう初夏の装いに近くなってきた。そろそろ、今年の春も行ってしまうのか。これからは日に日に、そんな実感が濃くなっていく。しかし、同じ季節の変わり目とはいっても、秋から冬へ移っていくときのような寂しさはない。万物が活気に溢れる季節がやってくるからだ。それにしても、寒さから解放された春には外出の機会が多くなる。花見をピークとして人込みに出ることも多いし、人事の季節ゆえ、歓送迎会などで誰かれと会うことも他の季節よりは格段に多い。春は、いささか「人づかれ」のする季節でもあるのだ。その「人づかれ」を、作者は「ほろ酔ひに似る」と詠んだ。うっすらと意識が霞んだような酔い心地が、春行くころの温暖な空気とあいまって、決して不快な「人づかれ」ではないことを告げている。ちょっとくたびれはしたけれど、心地のよい疲労感なのである。この三月で、私はラジオの仕事を止めたこともあって、普段の年よりもよほど「人づかれ」のする春を体験した。作者と同じように「ほろ酔ひ」の感じだが、もう二度とこのような春はめぐってこないと思うと、う〜ん、なんとなく寂しい気分もまざっている、かな。『俳句塾』(1992)所収。(清水哲男)


April 2742003

 藤房に山羊は白しと旅すぎゆく

                           金子兜太

語は「藤(の)房」で春。立夏の後に咲く地方も多いから、夏期としてもよさそうだ。掲句は「藤房・伯耆」連作十句の内。大山(だいせん)に近い鳥取県名和町には、「ふじ寺」として有名な住雲寺があるので、そこで詠んだのかもしれない。だとすれば、五月中旬頃の句だ。「旅すぎゆく」とあるけれど、むしろ「もう旅もおわるのか」という感傷が感じられる。見事な花房が垂れていて、その下に一頭の山羊がいた。このときに「山羊は白しと」の「と」は、自分で自分に言い聞かせるためで、藤の花と山羊とを単なる取りあわせとして掴んだのではないことがわかる。作者には藤の見事もさることながら、偶然にそこにいた山羊の白さのほうが目に沁みたのだ。すなわち、この山羊の白さが今度の旅の一収穫であり、ならばこの場できっちりと心に刻んでおこうとした「と」ということになる。そして、この「と」は、まだ先の長い旅ではなくて、おわりに近い感じを醸し出す。とくに最後の日ともなれば、いわば目の欲が活発になってきて、昨日までは見えなかったものが見えてきたりする。この山羊も、そういう目だからこそ見えたのだと思う。そうすると、なにか去りがたい想いにとらわれて、自然に感傷的になってしまう。今月の私は二度短い旅行をして、二度ともがそうだった。だから、兜太にしては大人しい作風の掲句が、普段以上に心に沁みるのだろう。『金子兜太集・第一巻』(2002)所収。(清水哲男)


April 2842003

 江戸留守の枕刀やおぼろ月

                           朱 拙

者は江戸期地方在住の人。「江戸留守」とは聞きなれない言葉だが、自分が江戸を留守にするのではなく、主人が江戸に出かけて留守になっている状態を指す。現代風に言えば、さしずめ夫が東京に長期出張に出かけたというところだ。その心細さから、枕元に護身用の刀を置いて寝ている。今とは違って、電話もメールもない時代だから、江戸での主人の消息はまったくわからない。無事到着の手紙くらいは寄越しても、毎日の様子などをいちいち伝えてくるわけじゃなし、そのわからなさが、留守居の心細さをいっそう募らせたことだろう。句の眼目は、しかしこの情景にあるのではなく、下五の「おぼろ月」との取りあわせにある。この句を江戸期無名俳人の膨大な句のなかから拾ってきた柴田宵曲は、次のように書く。「蕪村の『枕上秋の夜を守る刀かな』という句は、長き夜の或場合を捉えたものである。この句も或朧月夜を詠んだに相違ないが、江戸留守という事実を背景としているために、もっと味が複雑になっている。朧月というものは必ず艶な趣に調和するとは限らない。こういう留守居人の寂しい心持にもまた調和するのである」。同じ朧月でも、見る人の心の状態によって、いろいろに見えるというわけだ。当たり前のことを言っているようだが、古来朧月の句がほとんど艶な趣に傾いているなかにあって、この指摘は貴重である。柴田宵曲『古句を観る』(1984・岩波文庫)所載。(清水哲男)


April 2942003

 飛ばさるは事故かそれとも春泥か

                           岡田史乃

通事故にあった句。一瞬、何が自分の身に起きたのかがわからなくなる。私の場合は、こうだった。もう深夜に近い人影もまばらな吉祥寺駅前の交差点で、信号はむろん青だったが、普通の足取りで渡っていたら、前方の道から走ってきた右折車が有無を言わせぬ調子で突っ込んできた。あっと思ったとたんに、私の身体は嘘のように軽々とボンネットに乗っており、次の瞬間には激しく路上に叩きつけられていた。ボンネットに乗ったところまでは意識があったけれど、下に落ちてからは、掲句のように頭が真っ白になった。何が何だかわからない。したたかに腰を打って、しかし懸命に立ち上がったところに運転者が降りてきた。「大丈夫ですか」。こんなときにはそんなセリフくらいしか吐けないのだろうが、大丈夫もくそも、こっちの頭は大いに混乱している。とにかく歩道にあがって、そやつの顔を街灯で見てみると、こっちよりもよほど若く、よほど顔面蒼白という感じだった。私が黒いコートを着ていたので、まったく見えなかったと弁解し、「すみません、すみません」と繰り返すばかり。名刺はないけれど、近所の中華料理店で働いていると店の名前と場所と電話番号をメモして渡してくれたので、こちらもとにかく立ててはいられるのだからと、警察沙汰にするのも可哀想になってきて、今後は気をつけるようにと放免してやった。ところで最近、この句の「飛ばさるは」について、「飛ばさるるは」ないしは「飛ばされしは」でないと表現上まずいという人たちの話を雑誌で読んだ。事が事故でなければ、たしかにまずい。しかし、文法的な整合性に外れていると知りつつも、あえて作者は「飛ばさるは」として、交通事故にあった切迫感を出しているのだと思う。そのへんの機微がわからないとなると、俳句の読者としてはかなりまずいのではなかろうか。「俳句」(2000年3月号)所載。(清水哲男)


April 3042003

 腹立ててゐるそら豆を剥いてをり

                           鈴木真砂女

語は「そら豆(蚕豆)」で夏。サヤが空を向くので「そらまめ」としたらしい。そのサヤを、むしゃくしゃとした気持ちで剥(む)いている。作者は銀座で小料理屋「卯波」を営んでいたから、剥く量もかなり多かっただろう。仏頂面で、籠に山なす蚕豆のサヤを一つ一つ剥いている姿が目に浮かぶようだ。妙な言い方になるけれど、女性の立腹の状態と単純作業はよく釣り合うのである。かたくなに物言わず、ひたすら同じ作業を繰り返している女性の様子は、家庭でもオフィスなどでもよく見かけてきた。一言で言って、とりつくシマもあらばこそ、とにかく近づきがたい。「おお、こわ〜」という感じは、多くの男性諸氏が実感してきたところだろう。怒ると押し黙るのは男にもある程度共通する部分があるが、怒りながら何か単純作業をはじめるのは、多く女性に共通する性(さが)のように思われる。したがって、仮に掲句に女性の署名がなかったとしても、まず男の作句と思う読者はいないはずだ。些細な日常の断片を詠んだだけのものだが、女性ならではの句として、非常によく出来ている。話は変わるが、東京あたりの最近の飲み屋では、蚕豆のサヤを剥かずに火にあぶって、サヤに焦げ目がついた状態でそのまま出す店が増えてきた。出された感じは、ちょっとピーマンを焼いた姿と似ている。あれは洒落た料理法というよりも、面倒なサヤ剥きの仕事を、さりげなく客に押し付けてやろうという陰謀なのではなかろうか。そうではないとしても、サヤの中の豆の出来不出来を見もしないで客に出す手抜きは、実にけしからん所業なのであります。『新日本大歳時記・夏』(2000・講談社)所載。(清水哲男)




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