April 112003
花吹雪うしろの正面だれもゐず
中嶋憲武
散るときは、本当に吹雪のように散る。見事なものだ。作者はひとり「花吹雪」のなかにいて、いささかの感傷に浸っている。思い返すと、子供のころには、いつも「うしろの正面」に誰かがいたものだが、いつしか誰もいなくなってしまった。実際に誰かがいたというよりも、両親など、頼もしい誰かの存在を感じながら生きていたのに、その存在が消えてしまった。ひとりぼっち。そんな寂寥感が、激しい落花に囲まれて迫ってくる。苦くもあり、しかしどこか甘酸っぱくもある心情の吐露と言うべきか。というのも、単に背後と言わず、わざわざ「うしろの正面」と、子供の遊び「かごめかごめ」の歌詞の文句を借用しているからだ。このことで、句には楽しかった幼時追想の色合いが濃く滲み出た。「かごめかごめ、籠のなかの鳥は、いついつ出やる/夜明けの晩に、鶴と亀がすべった/うしろの正面だあれ?」。私はこう覚えているが、地方によって多少の異同があるようだ。あらためて眺めてみると、この歌の意味はよくわからない。ただ「夜明けの晩」と「うしろの正面」という矛盾した表現から推して、そうした矛盾を面白がる発想から作られたものだろう。「八十歳の婆さんが九十五歳の孫連れて……」なんて戯れ歌もあったけれど、そんな歌と同じ発想だ。つまりナンセンスソングなのだから、意味を求めても、そのこと自体がナンセンスな試みになってしまう。しかし、子供のころには、誰もが意味不明だということを少しも疑問に思わずに歌っていた。歌にかぎらず、さしたる疑問など持たずに生きていられたのは、むろん「うしろの正面」に安心できる誰かがいてくれたおかげなのである。『炎環・新季語選』(2003)所載。(清水哲男)
June 022008
口笛のさびしき玉蜀黍の花
中嶋憲武
季語は「玉蜀黍(とうもろこし)の花」で夏。歳時記に載っているくらいだから、昔はポピュラーな花だったのだろうが、いまではめったに見ることがない。以前は都会でも、庭の塀添いなどに植えている家庭もよくあった。雄花と雌花とがあるけれど、この場合はいまごろ咲きはじめる雄花だろうか。茎のてっぺんに、まことに地味な放射状の花が開く。秋に実るのは雌花のほうである。句を読んで、少年時代を思い出した。我が家の芋畑やトマト畑の片側三畝くらいだったろうか、玉蜀黍を育てていて、その成長ぶりはいまでも思い出すことができる。他の野菜類に比べれば、抜群に背が高くなり、子供の背丈などはすぐに越えてしまう。けれども、なぜか生長の勢いというものがあまり感じられず、とても孤独な雰囲気を漂わせる植物なのだ。なんとなく申し訳なさそうに、肩をすぼめている感じ。花もまた同様であって、すみませんすみませんという感じ。この句の「さびしき」は「口笛」にも「玉蜀黍の花」にもかけられているが、作者が感傷的になっているのはむろんだとしても、それよりも玉蜀黍の存在感そのものが「さびしき」という形容にぴったりなので、私は立ち止まってしまったという次第。玉蜀黍をよく知る人でないと、こんな具合には詠めないと思った。「豆の木」(2008年4月・第12号)所載。(清水哲男)
『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます
|