ありゃ、もう月半ば。看板掛け替えのことを忘れていました。さあて、どうしようか。




2003ソスN4ソスソス15ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 1542003

 山吹や川よりあがる雫かな

                           斯波園女

語は「山吹」で春。東京では、いまが盛りだ。園女(そのめ)は江戸期の人、蕉門。前書に「六田渡(むだのわたし)」とあるから、奈良の吉野川下流域での句である。さて、この句はちょっと分かりにくい。ふつう「渡」というと、誰もが渡し舟を想像するだろう。「舟が出るぞ〜」の、あれである。しかし、渡し舟の「雫(しずく)」が「川よりあがる」図には無理がある。では、何の雫だろうか。急流なので、岩を噛んだ水が飛び散り、雫となって岸辺に「あが」っている図だろうか。でも、それならわざわざ前書をつけることもない。正解は「馬」である。万葉集に「馬並めてみ吉野川を見まく欲りうち越え来てぞ瀧に遊びつる」の歌も見えるように、大昔から川は馬でも渡っていた。雫の主が馬と分かると、句の情景はたちまち鮮かに浮かびあがってくる。川瀬を勢いよく渡ってきた馬が岸にあがり、びしょ濡れの胴体から飛び散る雫が、折しも満開の黄金色の山吹にざあっとかかった情景だ。まことに力強くダイナミックな詠みぷりで、春光に輝く周辺の景色までもが彷彿としてくるではないか。この句は、与謝蕪村編、千代尼序、田女跋という豪華メンバーによるアンソロジー『玉藻集』(1774年・安永三年刊)に収載されている。(清水哲男)


April 1442003

 棚霞キリンの頸も骨七つ

                           星野恒彦

語は「棚霞(たながすみ)」で春。横に筋を引いたように棚引く霞とキリンの長い首。縦横の長い取り合わせが、まず面白い。句の註に「哺乳類の頸骨はみな七個」とあって、実は私はこれを知らなかった。知らないと「頸(くび)も」の「も」がわからない。そうか、あんなに長い首にも、人間の首と同じように「七つ」の骨しかないのかと思うと、なんだか妙な感じがする。逆に、人間の首に七つも骨があるのかと首筋を触って見たくなる。そんな感じで、作者は何度かキリンを見上げたのだろう。おあつらえ向きに、七つの骨の部分の背景に七つの筋を引いて、霞が棚引いている。と解釈してしまうと、かなりオーバーだけど(笑)。でも、詠まれた環境の理想的な状態は、そのようであればそれに越したことはないのである。あらためて調べてみたら、キリンの身長は肩高3.6メートル、頭頂高5〜5.5メートルほどである。体重ときたら、雄で800〜900キロ、雌で550キロ程度だという。これくらいデカいと、世の中の見え方も相当に違うのだろう。この句は上野動物園で詠まれているが、自慢じゃないが、東京に住みながら、私は一度も入園したことがない。この記録は、もったいなくて破る気がしない。そんなわけで、よくキリンを見たのは、大学時代の大阪は天王寺動物園でだった。そのころは長い首のことよりも、よくもまああんなに涎(よだれ)が垂れるものよと、いつも感心してたっけ。キリンの寿命は20年ほど。だとしたら、もうあのキリンはいない計算になる。『麥秋』(1992)所収。(清水哲男)


April 1342003

 「大和」よりヨモツヒラサカスミレサク

                           川崎展宏

書に「戦艦大和(忌日・四月七日) 一句」とある。「大和」はかつての大戦の末期に、沖縄沖の特攻作戦で沈没した世界海軍史上最大の戦艦だった。このときに、第二艦隊司令長官伊藤整一中将、大和艦長有賀幸作大佐以下乗組員2489人が艦と運命をともにした。生存者は276人。米軍側にしてみれば、赤子の手をひねるような戦闘だったと言われる。掲句は、最後の時が迫ったことを自覚した戦艦より打電された電文の形をとっている。「ヨモツヒラサカ(黄泉平坂)」は、現世と黄泉(よみ)の境界にあるとされる坂のことだ。これ以上、解説解釈の必要はないだろう。しかし、この哀切極まる美しい追悼句に、同時代感覚をもって向き合うことのできる人々は、いまこの国にどれほどおられるのだろうか。また、生き残りのひとり吉田満が一晩で一気呵成に書き上げたという『戦艦大和ノ最期』は、いまなお読み継がれているようだが、若い読者はどんな感想を抱くのだろう。とりわけて、哨戒長・臼淵大尉の次の言葉などに……。「進歩ノナイ者ハ決シテ勝タナイ。負ケテ目覚メルコトガ最上ノ道ダ。日本ハ進歩トイウコトヲ軽ンジ過ギタ。私的ナ潔癖ヤ徳義ニコダワッテ、真ノ進歩ヲ忘レテイタ。敗レテ目覚メル、ソレ以外ニドウシテ日本ガ救ワレルカ。俺達ハソノ先駆ケトナルノダ」。『義仲』(1978)所収。(清水哲男)




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