子供の頃は「みどり」に埋もれていた。特に初夏のみどりは息苦しくて嫌いだった。




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April 2942003

 飛ばさるは事故かそれとも春泥か

                           岡田史乃

通事故にあった句。一瞬、何が自分の身に起きたのかがわからなくなる。私の場合は、こうだった。もう深夜に近い人影もまばらな吉祥寺駅前の交差点で、信号はむろん青だったが、普通の足取りで渡っていたら、前方の道から走ってきた右折車が有無を言わせぬ調子で突っ込んできた。あっと思ったとたんに、私の身体は嘘のように軽々とボンネットに乗っており、次の瞬間には激しく路上に叩きつけられていた。ボンネットに乗ったところまでは意識があったけれど、下に落ちてからは、掲句のように頭が真っ白になった。何が何だかわからない。したたかに腰を打って、しかし懸命に立ち上がったところに運転者が降りてきた。「大丈夫ですか」。こんなときにはそんなセリフくらいしか吐けないのだろうが、大丈夫もくそも、こっちの頭は大いに混乱している。とにかく歩道にあがって、そやつの顔を街灯で見てみると、こっちよりもよほど若く、よほど顔面蒼白という感じだった。私が黒いコートを着ていたので、まったく見えなかったと弁解し、「すみません、すみません」と繰り返すばかり。名刺はないけれど、近所の中華料理店で働いていると店の名前と場所と電話番号をメモして渡してくれたので、こちらもとにかく立ててはいられるのだからと、警察沙汰にするのも可哀想になってきて、今後は気をつけるようにと放免してやった。ところで最近、この句の「飛ばさるは」について、「飛ばさるるは」ないしは「飛ばされしは」でないと表現上まずいという人たちの話を雑誌で読んだ。事が事故でなければ、たしかにまずい。しかし、文法的な整合性に外れていると知りつつも、あえて作者は「飛ばさるは」として、交通事故にあった切迫感を出しているのだと思う。そのへんの機微がわからないとなると、俳句の読者としてはかなりまずいのではなかろうか。「俳句」(2000年3月号)所載。(清水哲男)


April 2842003

 江戸留守の枕刀やおぼろ月

                           朱 拙

者は江戸期地方在住の人。「江戸留守」とは聞きなれない言葉だが、自分が江戸を留守にするのではなく、主人が江戸に出かけて留守になっている状態を指す。現代風に言えば、さしずめ夫が東京に長期出張に出かけたというところだ。その心細さから、枕元に護身用の刀を置いて寝ている。今とは違って、電話もメールもない時代だから、江戸での主人の消息はまったくわからない。無事到着の手紙くらいは寄越しても、毎日の様子などをいちいち伝えてくるわけじゃなし、そのわからなさが、留守居の心細さをいっそう募らせたことだろう。句の眼目は、しかしこの情景にあるのではなく、下五の「おぼろ月」との取りあわせにある。この句を江戸期無名俳人の膨大な句のなかから拾ってきた柴田宵曲は、次のように書く。「蕪村の『枕上秋の夜を守る刀かな』という句は、長き夜の或場合を捉えたものである。この句も或朧月夜を詠んだに相違ないが、江戸留守という事実を背景としているために、もっと味が複雑になっている。朧月というものは必ず艶な趣に調和するとは限らない。こういう留守居人の寂しい心持にもまた調和するのである」。同じ朧月でも、見る人の心の状態によって、いろいろに見えるというわけだ。当たり前のことを言っているようだが、古来朧月の句がほとんど艶な趣に傾いているなかにあって、この指摘は貴重である。柴田宵曲『古句を観る』(1984・岩波文庫)所載。(清水哲男)


April 2742003

 藤房に山羊は白しと旅すぎゆく

                           金子兜太

語は「藤(の)房」で春。立夏の後に咲く地方も多いから、夏期としてもよさそうだ。掲句は「藤房・伯耆」連作十句の内。大山(だいせん)に近い鳥取県名和町には、「ふじ寺」として有名な住雲寺があるので、そこで詠んだのかもしれない。だとすれば、五月中旬頃の句だ。「旅すぎゆく」とあるけれど、むしろ「もう旅もおわるのか」という感傷が感じられる。見事な花房が垂れていて、その下に一頭の山羊がいた。このときに「山羊は白しと」の「と」は、自分で自分に言い聞かせるためで、藤の花と山羊とを単なる取りあわせとして掴んだのではないことがわかる。作者には藤の見事もさることながら、偶然にそこにいた山羊の白さのほうが目に沁みたのだ。すなわち、この山羊の白さが今度の旅の一収穫であり、ならばこの場できっちりと心に刻んでおこうとした「と」ということになる。そして、この「と」は、まだ先の長い旅ではなくて、おわりに近い感じを醸し出す。とくに最後の日ともなれば、いわば目の欲が活発になってきて、昨日までは見えなかったものが見えてきたりする。この山羊も、そういう目だからこそ見えたのだと思う。そうすると、なにか去りがたい想いにとらわれて、自然に感傷的になってしまう。今月の私は二度短い旅行をして、二度ともがそうだった。だから、兜太にしては大人しい作風の掲句が、普段以上に心に沁みるのだろう。『金子兜太集・第一巻』(2002)所収。(清水哲男)




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