GWも後半。やっと今年は人並みにそわそわとした気分です。何の予定もないけれど。




2003ソスN5ソスソス3ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 0352003

 鯉のぼり布の音立て裏日本

                           秋沢 猛

じめは、干してあるのかと思った。数年前のこと。この時期に近所を散歩していると、新築とおぼしき家の二階のベランダから屋根にかけて、とてつもなく大きな「鯉のぼり」が広げられていた。ちょうど、布団を干すときのような広げ方だったので干してあるのかと思ったのだが、そうではないことにすぐに気がついた。その家には、庭らしい庭がないのだった。以前の家では空を泳がせていたのが、越してきて不可能となり、仕方なく屋根に広げて祝うことにしたのだろう。そう勝手に推測して、なんだか切なくなってしまったことを覚えている。掲句の鯉幟は、むろん勢い良く空を泳いでいる。当たり前の話だが、やはりこうでなくては……。「布の音立て」が秀抜だ。言われてみればなるほど、「裏日本」の湿り気のある大気のなかでは、立てる音も乾燥した地方のものとは違うだろう。どこか布地のこすれるような音がするのだ。それがまた、裏日本特有の濃い緑の背景とあいまって、格別の風情を醸し出しているという句だ。ところで「裏日本」という言葉は、差別用語だという理由で、三十年ほど前くらいからマスコミでは使わなくなっている。私は「裏日本」育ちで、なんとも思わずに「裏日本」と使っていたけれど、どうなんだろう、やっぱり差別なのかしらん。「日本海側」と言い換えてすむ場合はよいとして、では、この佳句をいったいどうしてくれるんだ。『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


May 0252003

 原節子・小津安二郎麦の秋

                           吉田汀史

優と監督と映画の題名(正確には「麦の秋」ではなく『麦秋』[1951・松竹大船]だが)を並べただけの句だ。しかし、こうして並べるだけで、ある世界がふうっと浮かんでくるのだから不思議だ。その意味で、手柄はやはり並べてみせた作者にあると言うべきだろう。良し悪しや好き嫌いはともかくとして、血縁や地縁などがまだ濃密に個人に関わっていた時代の世界。そこに漂っている静かな空気は、小津が好んだ中流以上の階級のものではあるけれど、常に懐しさと優しさに満ちていて、よくぞ日本に生れけりの感を観客にもたらしたものだった。ご存知のように、小津映画にはさしたるドラマ性はない。『麦秋』は、婚期を逸した原節子(といっても、二十八歳という設定だ)が、周囲の暗黙の反対を押しきって、妻を無くした医師の後添えとして結婚を決意するというだけの話だ。小津は、このようなどこにでもありそな日常をきめ細かく丁寧に描くことで、凡百のドラマ映画をしのぐ劇映画を撮りつづけた。ストーリー性よりもディテールの描写を大切にしたところは、どこか俳句作りに似ていないだろうか。事実、小津は俳句もよくした人であり、百句以上の句が残っている。たとえば「小田原は灯りそめをり夕心」などは、あまりにも小津映画的な句と言ってよいだろう。映画のタイトルに「麦秋」「早春」「彼岸花」「秋日和」「秋刀魚の味」など季節の言葉が多いのも、俳句との仲の良さを色濃く感じさせる。『一切』(2002)所収。(清水哲男)


May 0152003

 燕の巣母の表札風に古り

                           寺山修司

司、十代の句。この人にしては、珍しく写生的で、情景のくっきりとした句だ。軒先に燕が巣を作った。子燕たちが鳴き立てているので、見るともなしに見やったというところか。当たり前のことながら、軒下には「表札」がかかっている。両者は、同時に視野の中にある。でも、たいていの感受性ならば、元気な子燕の姿に微笑して、表札などは気にも止めずに立去ってしまうだろう。たとえそこに、父親のいない家庭を示している「母の表札」がかかっていようともだ。平凡な日常にあって、親の名前の書いてある表札をしげしげと眺めるなど、少なくとも私には経験がない。だが、ここでしぶとく一粘りするのが修司少年の詩心なのである。元気な子燕と母親の表札との取りあわせから、何か普遍性のある物語が紡ぎ出せないものかと粘るのだ。この取りあわせ自体が、既に十分に物語性をはらんではいる。しかし、これを下手に読者に突き出すと、単に同情を買いたがっているかのような、ひどくあざとい句になってしまう。その臭みを消すためにはどうすればよいのかと、下五をだいぶ考えたのではなかろうか。で、しごく平凡に見える「風に古り」と置くことにした。故意に、凡庸と思われる言葉を置いたのである。これで取り合わせの臭みは消え、さりげない哀感が滲み出てくる仕掛けが完成したというわけだ。ま、こんなふうに句を分解して考えるのは悪趣味かもしれないが、掲句に限らず、さりげなさを演出する俳句のダンディズムは、おおかたこのような形をしているのだろうと思ったことである。『われに五月を』(1957)所収。(清水哲男)




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