北側の窓下のつつじが咲きつづけている。南側の花は全部散った。違うものですね。




2003ソスN5ソスソス12ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 1252003

 早乙女のうしろしんかんたるつばめ

                           田中鬼骨

語は「早乙女(さおとめ)」で夏。田植えをする女性のこと。本義では田の神に仕える清らかな少女とされるが、現実的には田植えをする女性は老若を問わず少女とみなされたようで、誰もがみな早乙女なのである。田植えは辛抱強さが要求されるから、どちらかといえば女性に適った仕事だと思う。多くの句に詠まれている早乙女は、田植えを一気に片づけるために雇われた季節労働者だ。呑気に田植え歌などを歌いながらの仕事ではなく、日がな一日泥田を這い回る過酷な仕事をこなす女性たちのことだった。この句を読むと、作者が田植えの実践者であることがわかる。経験のない人には、なかなかこうは詠めない。というのも、後へさがりながら植えていく仕事だから、田植え人が気にするのは、いつも後方である。目の前にある植え終えた状態が成果なのではなく、後に残っっているスペースの狭さ広さが成果というわけだ。だから、自分とは無関係の田植えを見かけても、必ず反射的に「うしろ」を見てしまう。作者もそうやって見て、まだまだ「早乙女のうしろ」には広大なスペースが残されていている様子を詠んでいる。「しんかんたるつばめ」は単に黙って飛ぶ「つばめ」の状態を言ったのではなく、彼女らの後方に「つばめ」を飛ばすことで、残された仕事のための空間の大きさを暗示した言葉だと読める。漢字を当てるとすれば「森閑」よりも「深閑」に近いのかもしれないが、そのどちらのニュアンスも含めるために、あえて平仮名表記にしたのだろう。『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


May 1152003

 目高泳ぐ俳句する人空気吸えよ

                           豊山千蔭

語は「目高(めだか)」で夏。私なら春期としたいところだが、夏場に水槽などに飼われ、涼味を鑑賞されたことからの分類のようだ。金魚や熱帯魚と同じ扱いである。でも、いまどき目高と聞いて、水槽の中に泳ぐ姿を思い浮かべる人がいるだろうか。なんとも違和感を覚える分類だけれど、俳句ではそういう約束事になっているのだから、誰もが夏の魚として詠んできた。このように、俳句には常識では首をかしげたくなるような約束事が多い。門外漢には隠語としか思えない季語もあるし、不可解な用語法もある。だから「俳句する人」は勉強しなければならないし、様式に慣れなければならない。特別な研鑽を積む必要がある。となると、つまるところ俳句は「俳句する人」だけにしかわからない文芸であり、結局は仲間内の詩だと断じても、あながち的外れな指摘とは言えないだろう。初心のころはともかく、こうして多くの「俳句する人」は、だんだん俳句世界のなかだけで「空気」を吸うようになっていく。公園や名所などで、句になりそうな動植物に群がっている手帖片手の人たちを散見するが、見ていて哀れだ。いまさら目を見張ってみたところで、そんなに急に何かが見えてくるわけじゃない。いくら目の前にそれがあっても、見え方はその人の器量にしたがって見えるだけなのだ。人の器量は、人生経験やら勉強した知識やら生得の感覚やら、その他の何やかやで構成される。決して、俳句だけで培った何やかやだけじゃないはずだ。ところが、往々にして「俳句する人」は俳句の器量だけで物事を見るようであり、そこから詠んでいくようであり、ますます仲間内の文芸を固めていくようである。まるで水槽のなかの目高なんだね、これは。掲句の作者は、それではいけないと言っている。もっと俳句の外の「空気吸えよ」と、俳句で言っている。『現代俳句歳時記』(1989・千曲秀版社)所載。(清水哲男)


May 1052003

 自販機にしやがむ警官栗の花

                           佐山哲郎

語は「栗の花」で夏。まだ、花期には少し早いかな。句の眼目は「警官」を「しやが」ませたところにある。警官もいろいろだが、いわゆる「お巡りさん」だ。何か飲み物でも買ったのだろう。「自販機」だからしゃがまざるを得ないのだが、こういうところを見かけないかぎり、警官はいつも表では立っている存在だ。職業柄とはいえ、常に人を疑うという緊張感は相当なものだろう。しかし、疲れたからといって、しゃがんでいたのでは仕事にならない。まず、自分の姿勢が無防備に見えてはならない職業なのだ。そんな警官が、ふっとしゃがんだ。一瞬、無防備な姿勢になった。そこを見逃さずに詠んだ作者の観察力は、なかなかに鋭い。でも、栗の花との取りあわせの妙味はどこにあるのだろうか。ちょっと考えさせられた。おそらく、高いところで咲く花の形状ではなくて、あの独特の匂いを詠み込んだのではなかろうか。甘いような青臭いような匂いは、たとえれば女の匂いではなく、男の匂いである。普段はさして性を感じさせることのない警官に、作者はこのとき、不意に男臭さ、人間臭さを感じたのだと思う。人はたぶん、無防備なときにこそ、いちばん人間臭さやその人らしさを発散するのだろう。ちなみに、作者は浄土宗の住職である。こっちは警官とは逆に、坐っているイメージの強い仕事ですな。『東京ぱれおろがす』(2003)所収。(清水哲男)




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