カミュの『ペスト』を再読してみたくなった。『SARS』も誰かが書くだろうな。




2003ソスN5ソスソス21ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 2152003

 とほるときこどものをりて薔薇の門

                           大野林火

季咲きの「薔薇(ばら)」もあるが、俳句では一応夏の花に分類している。我が家の近所に薔薇のアーチをかけた門のあるお宅があり、今を盛りと咲いていて見事なものだ。よほど薔薇が好きだとみえて、垣根にもたくさん咲かせている。ときおり前を通るたびに、どんな人が住んでいるのかとちらりとうかがうのだが、その家の人を見かけたことがない。いつも、ひっそりとしている。そう言えば、一般的に薔薇の門のある家というのはしいんとしている印象が強く、邸内から陽気な人声や物音はまず聞こえてきたためしがない。作者にもそんな先入観があって、ためらいがちに門を通ったのだろう。と、門の奥のところに「こども」がいた。人家だから誰がいても当たり前なのだが、いきなりの「こども」の出現に意表を突かれたのだ。なんとなく大人しか住んでいない感じを持っていたから、「えっ」と思うと同時に、にわかに緊張感がほぐれていく自分を詠んでいる。今日見られるような西洋薔薇の栽培がはじまったのは、江戸後期から明治の初期と言われており、おそらくは相当に高価だったろうから、昭和も戦後しばらくまでは富の象徴のような花だったと言ってよいだろう。その意味でも、庶民に似合う花じゃなかった。ましてや、子供には似合わない。したがって、掲句の薔薇とこどもの取り合わせは、実景でありながら実景を越えて、浅からぬ印象を読者に植え付けることになった。『新改訂版俳諧歳時記・夏』(1968・新潮文庫)などに所載。(清水哲男)


May 2052003

 漁歴になき赤汐や夏柳

                           瀧井孝作

者十五歳の句。光景を想像してみると、おどろおどろしくも恐ろしい。みどり滴る美しい「夏柳(葉柳)」の向こうに透けて、血に染まったような色の海がどこまでも広がっているのだ。土地の漁師がはじめて見た異常現象「赤汐(あかしお・赤潮)」の実感はかくやとばかりに、精一杯にそれこそ想像した作者のフィクションである。フィクションと断定できるのは、当時の作者が飛騨高山の在であり、もしかするとまだ海などは見たことがなかったかもしれないと思えるからだ。この句は、河東碧梧桐が新傾向俳句の普及のために全国をまわる途次、飛騨高山に立ち寄った(明治四十二年)ところ、地元の俳句好きの連中がいわば無理やりにとっつかまえた格好で、急遽開いた句会での作である。兼題は「夏柳」。最年少であった孝作少年は、天下の碧梧桐の新傾向を強烈に意識して、あえてフィクション句を試みたのだろう。魚問屋で働いていたので、知識のなかに「赤汐」はあったのだろうが、それにしても「夏柳」と取りあわせたところは才気煥発と言うべきか。じっくり読めば「漁歴(りょうれき)になき」の説明調にひっかかるけれど、この措辞には慎重に空想の野放図を押さえる配慮が働いていて、やはり才気を感じさせられてしまう。少年ならではの力業と、その抑制と。なにも俳句とは限らない。そして、昔とも限るまい。子供のなかには、こんな力を咄嗟に発揮できる者はたくさんいる。力の源にあるのは、おそらく一所懸命の心なのだろう。想像の世界も全力が尽くされていないと、享受者には面白くない。と、これはほとんど私の自戒の弁だけれど……。『瀧井孝作全句集』(1974)所収。(清水哲男)


May 1952003

 キューリ切り母の御紋を思い出す

                           三宅やよい

木瓜紋
語は「キューリ」で夏だが、「胡瓜」としないで「キューリ」としたところが、句の眼目だ。一般的にはもはや使われなくなった古風な「御紋」との対比が生きてくる。家紋には左右対称形の図柄が多く、また植物系のものも多いので、たしかに「キューリ」の断面は何かの紋に似ていなくもない。食事の用意をしながら、ふっと「母の御紋」を思い出した作者は、ちらりと当時の母の冠婚葬祭などでの立ち居振る舞いに思いが至ったのだろう。しかし、それも束の間、すぐに現実に戻って台所仕事をつづけている作者の様子が、この「キューリ」という故意に軽くした表現に読み取れる。句のように、私たちもまた、なんでもない日常の中で、ふとしたきっかけから瞬時身近にいた誰かれのことを思い出すことがある。そして、間もなく忘れてしまう。そのあたりの人情の機微を、「キューリ」一語の使い方で巧みに詠み込んだ佳句だと感心してしまった。ただ読者のなかには、あるいは「母の御紋」を何故作者が知っているのかと疑問に思う方がおられるかもしれない。母方の紋を代々娘が継ぐ風習は、多く関西地方に見られたもので、全国的ではなかったようだ。私の母も関西系だから、彼女の紋が「抱茗荷」と知っているわけで、他の地方の女性は嫁入り先の紋をつけたから、一つの家には一つの家紋というのが常識という地方が多かったろう。ちなみに、関西での男方の家紋は「定紋」と言い、女方のそれは「替紋」と呼んだ。ところで、掲句の紋はどんなものなのだろうか。図版の「木瓜」というのがある(織田信長の家紋で有名)けれど、胡瓜の切り口を図案化したものと言われはするが、本来は「カ(穴カンムリに巣と書く)」と呼ばれる鳥の巣を象ったものだそうだ。カとは地上に巣を作る鳥の巣であり、樹上に作られたものを巣と書いた。多産を祈った紋と思われる。ところで、あなたの家の紋所は何でしょう。ご存知ですか。恥ずかしながら、私は父家の紋をこれまで知らずに生きてきました。『玩具帳』(2000)所収。(清水哲男)




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