今季の阪神ファンは騒がない。息を詰めるようにして、爆発の瞬間を待っている。




2003ソスN5ソスソス22ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 2252003

 舞へや舞へ片目つむりて蝸牛

                           多田智満子

語は「蝸牛(かたつむり)」で夏。『梁塵秘抄』に「舞へ舞へかたつぶり、……」と出てくる。が、掲句にそんな遊び心はないように思った。たぶん幼いころに、作者には「かたつむり」と「かためつむり」のイメージとが固く結びついてしまったのだろう。よくあることで、長じてもなお、蝸牛と聞くと「片目つむり」のイメージがつきまとって離れない。つまり、この句は大人の浅知恵でわざと幼児的な言葉遊びを試み、読者を面白がらせようとしたものではないと読める。学問的には何と言うのか知らないが、こうした幼児期の錯誤的な思い込みは誰にでもいくつかはあるようで、私にもある。多くの場合に絶好の笑い話の種となるが、しかし、時と場合によっては苦しみの種となることもある。ふとした折りに、どうかすると心の中でこの思い込みが肥大してきて、頭ではむろん錯誤とわかっていながらも、どうにもならなくなるのだ。振り払おうとしても、簡単には振り払えない。ならばいっそのこと逆療法で、錯誤の海に溺れてやろうとしたのが、掲句のテーマだろう。そうでなければ、『梁塵秘抄』からの着想にせよ、蝸牛に「舞へや舞へ」などと無理難題を持ちだしたりはできない。それこそ第一、イメージ的に無理がありすぎる。すなわち、苦しさを昇華させる苦し紛れの療法として、いささかの狂気をもって対峙する作者の姿勢が、一気呵成に句の姿として立ち現れたというところか。作者は長年にわたる現代詩の優れた書き手であったが、この一月に亡くなった。享年七十二。俳句は、自分の葬儀の会葬者に句集として手渡すべく、意識的に作句されたもののようだ。詩集ではなくて、なぜ句集だったのだろう。『風のかたみ』(2003・非売)所収。(清水哲男)


May 2152003

 とほるときこどものをりて薔薇の門

                           大野林火

季咲きの「薔薇(ばら)」もあるが、俳句では一応夏の花に分類している。我が家の近所に薔薇のアーチをかけた門のあるお宅があり、今を盛りと咲いていて見事なものだ。よほど薔薇が好きだとみえて、垣根にもたくさん咲かせている。ときおり前を通るたびに、どんな人が住んでいるのかとちらりとうかがうのだが、その家の人を見かけたことがない。いつも、ひっそりとしている。そう言えば、一般的に薔薇の門のある家というのはしいんとしている印象が強く、邸内から陽気な人声や物音はまず聞こえてきたためしがない。作者にもそんな先入観があって、ためらいがちに門を通ったのだろう。と、門の奥のところに「こども」がいた。人家だから誰がいても当たり前なのだが、いきなりの「こども」の出現に意表を突かれたのだ。なんとなく大人しか住んでいない感じを持っていたから、「えっ」と思うと同時に、にわかに緊張感がほぐれていく自分を詠んでいる。今日見られるような西洋薔薇の栽培がはじまったのは、江戸後期から明治の初期と言われており、おそらくは相当に高価だったろうから、昭和も戦後しばらくまでは富の象徴のような花だったと言ってよいだろう。その意味でも、庶民に似合う花じゃなかった。ましてや、子供には似合わない。したがって、掲句の薔薇とこどもの取り合わせは、実景でありながら実景を越えて、浅からぬ印象を読者に植え付けることになった。『新改訂版俳諧歳時記・夏』(1968・新潮文庫)などに所載。(清水哲男)


May 2052003

 漁歴になき赤汐や夏柳

                           瀧井孝作

者十五歳の句。光景を想像してみると、おどろおどろしくも恐ろしい。みどり滴る美しい「夏柳(葉柳)」の向こうに透けて、血に染まったような色の海がどこまでも広がっているのだ。土地の漁師がはじめて見た異常現象「赤汐(あかしお・赤潮)」の実感はかくやとばかりに、精一杯にそれこそ想像した作者のフィクションである。フィクションと断定できるのは、当時の作者が飛騨高山の在であり、もしかするとまだ海などは見たことがなかったかもしれないと思えるからだ。この句は、河東碧梧桐が新傾向俳句の普及のために全国をまわる途次、飛騨高山に立ち寄った(明治四十二年)ところ、地元の俳句好きの連中がいわば無理やりにとっつかまえた格好で、急遽開いた句会での作である。兼題は「夏柳」。最年少であった孝作少年は、天下の碧梧桐の新傾向を強烈に意識して、あえてフィクション句を試みたのだろう。魚問屋で働いていたので、知識のなかに「赤汐」はあったのだろうが、それにしても「夏柳」と取りあわせたところは才気煥発と言うべきか。じっくり読めば「漁歴(りょうれき)になき」の説明調にひっかかるけれど、この措辞には慎重に空想の野放図を押さえる配慮が働いていて、やはり才気を感じさせられてしまう。少年ならではの力業と、その抑制と。なにも俳句とは限らない。そして、昔とも限るまい。子供のなかには、こんな力を咄嗟に発揮できる者はたくさんいる。力の源にあるのは、おそらく一所懸命の心なのだろう。想像の世界も全力が尽くされていないと、享受者には面白くない。と、これはほとんど私の自戒の弁だけれど……。『瀧井孝作全句集』(1974)所収。(清水哲男)




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