ラジオ局に通っていたころよりも、一日がよほど短く感じられる。なんでかな〜。




2003ソスN5ソスソス23ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 2352003

 ほとゝぎす女はものゝ文秘めて

                           長谷川かな女

正初期の作。当時の虚子の鑑賞があるので読んでみよう。「女といふものは男ほど開放的にし兼ねる地位にあることから、ある文を固く祕めて人にみせずにゐるといふのである。これが男の方だとたとひその祕事が暴露したところで一時の出来事として濟むのであるが、女になるとさうはゆかぬ場合が多い。それはもともと女が社會的に弱者の地位に在るといふことも原因であらうが、そりばかりでなく、元来女のつつましやかな、やさしげな性情から出発して来てゐるものともいへる。ほとゝぎすと置いたのは、主観的の配合で、ほとゝぎすといふ鳥は僅かに一聲二聲を聞かせたばかりでたちまち遠くへ飛び去つて姿はもとよりそのあとの聲も聞えぬ鳥である。さういふ鳥の人に與へる感じと、女のものを祕め隠す心持とに似通つた點を見出して配したものである」(『進むべき俳句の道』1959・角川文庫)。だいたいの解釈としてはこれでよいとは思うが、しかし、虚子の物言いはひどく曖昧だ。言い方を変えれば、諸般の事情に配慮しての鑑賞文である。かな女はこのときに、同じく「ホトトギス」の投句者であった長谷川零餘子の夫人であった。そのことは、虚子も承知している。承知しているばかりか「かな女君は長谷川家の家附きの娘さんであつて、零餘子君は他から入家した人である」と世間に「暴露」している。したがって、虚子が掲句に注目したポイントは、この鑑賞文にはほとんど何も書かれていないということだ。……なんてことを言う私のほうが下世話に過ぎるのかとも一瞬思ったけれど、そんなこともないだろう。淡くぼかしてはあるが、それでも相当な勇気をふるって投稿した作者は、このように鑑賞されたのでは不本意だったに違いない。与謝野晶子の『みだれ髪』が世に出てから、ゆうに十年以上も経っていたというのに……。かな女のライバルであった杉田久女は、虚子に同人除名という仕打ちにあったずいぶん後で「虚子嫌ひかな女嫌ひの単帯」と詠んだけれど、虚子の「社會的」(「経営者的」と言える)なバランスを重んじすぎる感覚に無言ながら不満だった人は、けっこういたのではなかろうか。(清水哲男)


May 2252003

 舞へや舞へ片目つむりて蝸牛

                           多田智満子

語は「蝸牛(かたつむり)」で夏。『梁塵秘抄』に「舞へ舞へかたつぶり、……」と出てくる。が、掲句にそんな遊び心はないように思った。たぶん幼いころに、作者には「かたつむり」と「かためつむり」のイメージとが固く結びついてしまったのだろう。よくあることで、長じてもなお、蝸牛と聞くと「片目つむり」のイメージがつきまとって離れない。つまり、この句は大人の浅知恵でわざと幼児的な言葉遊びを試み、読者を面白がらせようとしたものではないと読める。学問的には何と言うのか知らないが、こうした幼児期の錯誤的な思い込みは誰にでもいくつかはあるようで、私にもある。多くの場合に絶好の笑い話の種となるが、しかし、時と場合によっては苦しみの種となることもある。ふとした折りに、どうかすると心の中でこの思い込みが肥大してきて、頭ではむろん錯誤とわかっていながらも、どうにもならなくなるのだ。振り払おうとしても、簡単には振り払えない。ならばいっそのこと逆療法で、錯誤の海に溺れてやろうとしたのが、掲句のテーマだろう。そうでなければ、『梁塵秘抄』からの着想にせよ、蝸牛に「舞へや舞へ」などと無理難題を持ちだしたりはできない。それこそ第一、イメージ的に無理がありすぎる。すなわち、苦しさを昇華させる苦し紛れの療法として、いささかの狂気をもって対峙する作者の姿勢が、一気呵成に句の姿として立ち現れたというところか。作者は長年にわたる現代詩の優れた書き手であったが、この一月に亡くなった。享年七十二。俳句は、自分の葬儀の会葬者に句集として手渡すべく、意識的に作句されたもののようだ。詩集ではなくて、なぜ句集だったのだろう。『風のかたみ』(2003・非売)所収。(清水哲男)


May 2152003

 とほるときこどものをりて薔薇の門

                           大野林火

季咲きの「薔薇(ばら)」もあるが、俳句では一応夏の花に分類している。我が家の近所に薔薇のアーチをかけた門のあるお宅があり、今を盛りと咲いていて見事なものだ。よほど薔薇が好きだとみえて、垣根にもたくさん咲かせている。ときおり前を通るたびに、どんな人が住んでいるのかとちらりとうかがうのだが、その家の人を見かけたことがない。いつも、ひっそりとしている。そう言えば、一般的に薔薇の門のある家というのはしいんとしている印象が強く、邸内から陽気な人声や物音はまず聞こえてきたためしがない。作者にもそんな先入観があって、ためらいがちに門を通ったのだろう。と、門の奥のところに「こども」がいた。人家だから誰がいても当たり前なのだが、いきなりの「こども」の出現に意表を突かれたのだ。なんとなく大人しか住んでいない感じを持っていたから、「えっ」と思うと同時に、にわかに緊張感がほぐれていく自分を詠んでいる。今日見られるような西洋薔薇の栽培がはじまったのは、江戸後期から明治の初期と言われており、おそらくは相当に高価だったろうから、昭和も戦後しばらくまでは富の象徴のような花だったと言ってよいだろう。その意味でも、庶民に似合う花じゃなかった。ましてや、子供には似合わない。したがって、掲句の薔薇とこどもの取り合わせは、実景でありながら実景を越えて、浅からぬ印象を読者に植え付けることになった。『新改訂版俳諧歳時記・夏』(1968・新潮文庫)などに所載。(清水哲男)




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