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May 2752003

 昼酒や真田の里の青あんず

                           井本農一

語は「あんず(杏)」で夏。「真田の里」といえば、智将真田幸村(信繁)などで知られる真田家発祥の地の長野県真田町のことだが、近くの更埴市が杏の名産地であることを考え合わせると、必ずしも真田町で詠まれた句と限定しなくてもよいだろう。なによりも、ゆったりとした句柄に惹かれる。時間軸に真田家三代の歴史を置き、空間には鈴なりの杏の珠をちりばめ、そのなかの一点で、作者が静かに昼の酒を味わっている構図の取り方が、実にさりげなくも巧みと言うべきだ。まだ熟していない「青あんず」には、悲劇のヒーロー・幸村の、ついに一歩及ばず熟することのなかった夢が明滅しているかのようである。そして、いかにも旨そうな酒の味。こんな酒なら、日本酒を飲まない私も、少しは付きあってみたくなった。でも、駄目だろうな。とても、こんなふうには詠めないという自信がある。元来が短気でせかせかした性格だから、とりわけて旅行中などは、なかなかゆったりとその場その場を味わうことができないからだ。次へ次へと、旅程のことばかりが気になるのである。逆に、そんな性格だからこそ、掲句のゆったりした世界に惹かれるということだろう。泰然たる人を見かけると、いつだって、つくづく羨ましいと思ってきた。それこそ、ついに熟することのない私のささやかな夢が、掲句にくっきりと炙り出された格好だ。作者の井本農一は、中世・近世文学、特に俳文学が専門の学者で、『日本の旅人・宗祇』『おくのほそ道をたどる』『芭蕉=その人生と芸術』など多くの著書がある。『合本俳句歳時記』(1997・角川書店)所載。(清水哲男)


November 27112006

 子の背信静かに痛む柚子のとげ

                           井本農一

語は「柚子(ゆず)」で秋に分類されているが、寒くなってからの黄金色に熟した玉は美しい。「背信」とはおだやかではないけれど、親の意向を聞き入れず、子が人生の大事を自分の考えだけで決めてしまったのだろう。進学や進路についてか、あるいは結婚問題あたりだろうか。その中身は知る由もないが、これまでは何でも親に相談し、何事につけ暴走するような子ではなかっただけに、今回のはじめての「背信」には打ちひしがれる思いである。怒りというよりも、どうしたのかという心配と哀しみの感情のほうが強いのだ。たとえれば、それは不覚にも刺されてしまった柚子のとげの傷みのように、思うまいとしても、何度でも静かな痛みを伴って胸を刺してくるのであった。このときに、実際に作者の手は柚子のとげで痛んでいたのでもあろう。子の背信。一般論としては、よくあることさとわかってはいても、それが自分との関わりにおいて起きてしまうと、話は別になる。その痛みはかくのごとくであると告げた揚句は、晩秋の小寒い雰囲気とあいまって、親としての情のありようをよく描出している。かれこれ半世紀前、私は父の望まぬ大学の望まぬ学部を受験すべく、勝手に願書を出してしまった。合格の通知を受けて父に報告すると、私の顔も見ずに、ただ一言「そうか」と言っただけだった。あれが、彼にははじめての「子の背信」だったのだろう。あのときにおそらく、父もまた静かな痛みを感じたにちがいないのである。青柳志解樹編『俳句の花・下』(1997)所載。(清水哲男)




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