雨の日/髭だらけの写真を破り/アネモネも見ず/金糸鳥も死ねと思ひ(北園克衛)。




2003ソスN6ソスソス11ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 1162003

 見送るや君たちまちに梅雨の景

                           大住日呂姿

では、立春より百三十五日目にあたる今日十一日を入梅としている。だから、年によっては上天気の入梅日もあるわけだが、今年は暦より一日早く、昨日、関東甲信、近畿、中国、四国、東海地方が入梅を迎えた。いよいよ、茫々たる長雨の季節がやってきた。作者は、親しい人を「梅雨」の中に見送っている。たったいま「じゃあ、また……」と別れたその人が、「たちまち」にして「梅雨の景」と化したというスケッチは卓抜だ。つい先ほどまでの賑やかな人間臭さが嘘のように、その人は梅雨の景色にすうっと溶けていき、一点景にすぎなくなってしまつたと言うのである。往来を行き交う人があっても、みな同じような点景に見えている。無常を感じたというほどではないにしても、何かそこに通じる寂しさが、ふっと作者をとらえたのだ。直截に主観を述べることなく、しかし主観を述べている。俳句にしかできない技と言うべきか。ところで、近着の矢島渚男主宰の俳誌「梟」(第145号・2003年6月)を開いたら、作者の死が告げられていて驚いた。転居したばかりのアパートで、倒れておられたという。一面識もなかったけれど、私は大住ファンで、これまでに四句書かせていただいている。「家庭というものの味を知らなかった大住さんの孤独の死、いや、幸せな死だったかも知れない。いつか死は誰にも平等に訪れるのだ。折りしも東京は桜の季節であった。……」(矢島昭子・同誌より)。享年七十八。生涯にただ一冊の句集が、茫々と残された。合掌。『埒中埒外』(2001)所収。(清水哲男)


June 1062003

 平伏の火の父が見し蟻なるか

                           小川双々子

語は「蟻」で夏。平伏(へいふく)する父親の姿。誰だって、そんな屈辱的な父親の姿など見たくはない。想像もしたくない。が、かつての大日本帝国に生きた父親たちにとっては、抽象的にもせよ、平伏は日常的に強いられる行為であった。ニュース映画に天皇が登場するだけで、起立脱帽した日常を、いまの若者は信じられるだろうか。今日伝えられる某国の圧制ぶりをあざ笑う資格は、我が国の歴史からすると、誰にもありえない。しかし、今日の某国でもそうであるように、かつての心ある父親たちはみな「火の」憤怒を抑えつつ平伏し、眼前すれすれの地を自在に歩き回る「蟻」を睨んでいただろう。その「火の父」の無念を、作者は子として引き受けている。かっと、眼前の蟻を睨んでいる。「昭和二十年七月二十八日夜、一宮市は焼夷弾による空襲で八割が灰燼に帰した。僕の父は防空壕内で窒息死した。傍らに自転車が立つてゐた」と作者は書いている。平伏の果てが窒息死であったとは、あまりにも悲惨でやりきれない。作者が父と言うときには、必ずこの悲惨な事実を想起して当然だが、それを個人の問題に矮小化して詠まないところが双々子の句である。個人を超えて常に人間全体へと普遍化する意志そのものが、双々子のテーマであると言っても過言ではないだろう。だから、作者の父親の窒息死を知らなくても、掲句はきちんと読むことができる。ところで、父たちの平伏の時代はあの頃で終わったのだろうか。そのことについても、掲句は鋭く問いかけているようだ。『囁囁記』(1998・邑書林句集文庫)所収。(清水哲男)


June 0962003

 葉柳に舟おさへ乘る女達

                           阿部みどり女

語は「葉柳(はやなぎ)」で夏。葉が繁り、青々としたたるように垂れている。句は、これから船遊びにでも出かけるところか。「女達」が「舟おさへ」て乗っているのは、和装だからだ。裾の乱れが気になるので、揺れる舟のへりにしっかりと手を添えながら乗っている。さながら浮世絵にでもありそうな光景で、美しい。……と単純に思うのは、私が男だからかもしれない。作者は女性だから、浮世絵みたいに詠んだつもりはなかったのかもしれない。たかが舟に乗ることくらいで、キャアキャア騒ぐこともなかろうに。せっかくの柳のみどりも興醒めではないか。などと、同性の浅はかな振る舞いに、いささかの嫌悪感を覚えている図だとも読める。「女達」と止めたのは、突き放しなのだとも……。まあ、そこまで意地悪ではないにしても、作者がただ同性のゆかしさ、好ましさを謳い上げたと読むのは早計のような気がする。同性同士でなければ感じられない何かが、ここに詠み込まれているはずだ。そう見なければ、それこそ同性の読者からすると、阿呆臭い句でしかなくなってしまうのではあるまいか。何度か読み直しているうちに、だんだんそんな気がしてきた。考えすぎかもしれないが、ふと気になりだすと止まらないのは、俳句装置の持つ磁力によるものだろう。高田浩吉じゃないけれど(って、私も古いなア)、♪土手の柳は風まかせなどと、呑気に歌い流してすむ句ではなさそうだ。女性読者のご意見をうかがいたいところ。『笹鳴』(1947)所収。(清水哲男)




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