June 142003
笹百合や嫁といふ名を失ひし
井上 雪
季 語は「笹百合」(写真参照)で夏。葉が笹に似ている。山野に自生し、西日本を代表する百合の花と言われてきたが、最近はずいぶんと減ってしまったようだ。生態系の変化もあるけれど、根元から引っこ抜いていく人が後を絶たないからだという。でも、自宅で育てるのは非常に難しいらしい。さて、句の前書には「姑死す」とある。作者は寺門に嫁いだ人だから、それだけ「嫁」の意識は強かったのだろう。私の知人に、つい数年前に僧侶と結婚した人がいる。ごく平均的なサラリーマンの娘だった。で、話を聞いてみると、なかなかに戸惑うことも多いらしい。新婚当時、二人で寺の近所を散歩していたら、檀家衆から「並んで歩くのは如何なものか」という声が聞こえてきたという。以来、本当に三歩ほど下がって歩いているというのだから、この一事をもってしても、「嫁」を意識するなというほうが無理である。もちろん、掲句の作者の生活については何も知らない。が、やはり「姑」との関係は、世間一般の人のそれよりも濃密であったと想像される。亡くなられて、まず「嫁といふ名」を思ったことからも、そのことがよくうかがえる。このときに「笹百合」は、清楚な生涯を送った姑に擬していると同時に、ひっそりと、しかししっかりと咲く姿を、今後の自分のありように託していると読んだ。追悼句ではあるけれど、単なる悼みの句だけに終わっていないところは、やはり「嫁」ならではの発想であり発語だと言うべきか。『和光』(1996)所収。(清水哲男)
February 242004
寝押したる襞スカートのあたたかし
井上 雪
季語は「あたたか(暖か)」で春。と何気なく書いて、待てよと思った。このスカートの「あたたかし」は、外気によるものではないからだ。だから、むしろもっと寒い冬の時期の句としたほうが妥当かもしれない。しかし待てよ、早春の寒い朝ということもあり得るし……、などと埒もないことを考えた。作者は十二歳から有季定型句を詠みつづけた人だから、作句時には「あたたか」を春の季語として意識していたとは思う。とすれば、寝押ししたスカートをはいたときの暖かさを、気分的に春の暖かさに重ねたのだろうか。いずれにせよ十代での句だから、あまりそんなことにはこだわらなかったとも思える。それはそれとして、襞の多いスカートの寝押しは大変だったろう。折り目正しくたたまなければならないし、敷布団の下に敷くのもそおっとそおっとだし、寝てからも身体をあまり動かしてはいけないという強迫観念にかられるからである。もちろん私はズボンしか寝押ししたことはないけれど、起きてみたら筋が二本ついていたなんて失敗はしょっちゅうだった。しかし、それ一本しかないんだから、はかないわけにはいかない。そんな失敗作をはいて出た日は、一日中ズボンばかりが気になったものだ。作者が掲句を詠んだときの寝押しは、大成功だったのだろう。その気分の良さがますます「あたたかし」と感じさせているのだろう。女性の寝押し経験者には、懐しくも甘酸っぱい味わいの感じられる句だと思う。この「寝押し」も、ほとんど死語と化しつつある。プレスの方法一つとっても、すっかり時代は変わってしまったのだ。『花神現代俳句・井上雪』(1998)所収。(清水哲男)
January 012006
塗椀のぬくみを置けり加賀雑煮
井上 雪
季語は「雑煮」で新年。この句、なんといっても品格がよろしい。雑煮の大きな「塗椀(ぬりわん)」を置いたわけだが、それを「ぬくみ」を置くと婉曲に、しかし粋に表現しているところ。そして「加賀雑煮」と締めた座りの良さ。句の座りももちろんだが、雑煮の椀もまた見事に安定している。ゆったりとした正月気分と同時に、質素な加賀雑煮に新年の引き締まる思いが共存している句だ。一般に加賀料理というと豪勢な感じを受けるが、加賀雑煮だけはすまし仕立てで、具は刻み葱と花鰹のみのシンプルなものだという。加賀百万石の権勢下で、武家も庶民も正月の浮かれ気分を自らいましめるための知恵の所産だろう。このように、雑煮は地方によっても違うし、その家ごとの流儀もある。我が家のように、関東風と関西風との両方を作ったりする家庭もけっこうあるのではなかろうか。子供の頃から慣れ親しんだ雑煮でないと、なんだか正月が来た気分がしないからだ。考えてみれば、雑煮は大衆化していない唯一の料理だ。たいていの料理はレストランや食堂が大衆化に成功してきたが、雑煮だけはそれぞれの家庭で食べるのが本流だから、どんなに美味しいものでも、簡単には表に出て行かないのである。すなわち、雑煮だけは味的鎖国状態のまま、それぞれの味がそれぞれの家庭で継承されてきたというわけだ。さて、新しい年になりました。お雑煮をいただきながら、年頭の所感を。……ってのは真っ赤な嘘でして、例年のようにぼんやりと過ごす時間を楽しむことにいたします。『新歳時記・新年』(1990・河出文庫)所載。(清水哲男)
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